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名古屋西川流

名古屋西川流(なごやにしかわりゅう)[1][1]は、日本舞踊流派愛知県名古屋市昭和区に本部を置く「一般財団法人 西川会」(四世家元西川千雅)が運営する。名古屋をどり主宰。

東京都新宿区に本部を置く「西川流®」(一般財団法人 西川流)とは無関係[2]

名古屋西川流
分類 日本舞踊
本拠地 日本
466-0832
愛知県名古屋市昭和区駒方町2丁目66−1 西川会会館
一般財団法人西川会
株式会社⻄川
創始 1860年
創始者 初代・西川鯉三郎
西川幾(織田いく)
家元 西川千雅
関係する人物 西川嘉義(織田かぎ)
公式サイト 一般財団法人西川会 名古屋西川流
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西川会会館

来歴

織田いく西川嘉義の養母)は尾張藩士織田弥三兵衛信久の長女で踊りを初め藤間勘十郎に学び、西川流四世西川扇藏の弟子・(西川仁藏)を名古屋に招いた。1841年天保12年)仁藏は18歳で父とともに名古屋に移り、その後、1846年に(篠塚力寿)と結婚して京舞篠塚流坂東流の(坂東秀代)に舞踊を学び、他にも能や狂言の長所を取り入れ、舞踊一筋に打ち込んだ。のちに力寿とは離婚。1856年、31歳の頃から西川和光の号で名古屋の芝居小屋の振付師として活躍した。

1860年1月19日、35歳で「御免踊指南」の公許を得る(西川鯉三郎免許の跡)[3][4](西川鯉三郎)を名乗り、織田いくが創流を支援し「名古屋西川流」樹立。1863年文久3年)織田いくは名取(苗字免許)第一号「西川幾」となって名古屋西川流の柱となる。西川鯉三郎は名古屋の劇場振付けを一手に収めたり、舞踊百番衣装附や舞踊譜を作るなどの功績を残した。西川幾の養女・嘉義も1877年明治10年)名取り「西川嘉義」となり、美人舞踊家としての名声とともに名古屋西川流が広まる。初代西川鯉三郎や西川嘉義ら芸能者の活躍が、「芸どころ名古屋」の礎となった。

初代鯉三郎亡き後の跡目争い

1899年明治32年)に初代鯉三郎亡き後は、鯉三郎の跡目争いが起こった。幾の弟子で1880年(明治13年)に名取りとなった女役者の西川石松[5]が「合議制」を持ち出して嘉義に対抗したことによって、幾・嘉義派と石松派が正面衝突した。1905年(明治38年)西川幾が死去[2]。翌1906年(明治39年)御園座で追善供養会を催し、嘉義が「面影」を舞った[3]。精神的に追いつめられた嘉義は名古屋の稽古場で、1921年大正10年)3月21日に58歳で自ら命を絶った。全国的に著名な美人舞踊家で、尾張藩重臣織田氏家令竹村鶴叟の孫にして士族織田氏の養女である西川嘉義が自殺したことで、名古屋西川流一門としての大きな問題が露呈した[4][5]。事件により名古屋の名物となった西川石松は「家元」にはならなかったが名古屋西川流の権力者となったのちに、1935年(昭和10年)10月28日、82歳で亡くなった[6][6]。石松の娘・花子も若くして亡くなる。トラブルが社会に知られ、初代鯉三郎の死後40年以上も家元空位であった。

流派を興した西川幾と西川嘉義の記念碑

 
舞踊妙手西川嘉義之碑

西川幾記念碑名古屋市八事興正寺にあり、また、1922年大正11年)坪内逍遥の撰文による西川嘉義の記念碑も八事興正寺に建てられた[7]。その中で、逍遥は次のように嘉義の事を評している。

舞踊の名師、古来其人夥し。然れども自ら打扮して演舞し、其妙技克く他をして恍惚たらしむる者多からず。風貌の秀と芸の品位と技の洗練とを併せ備へざれば能はざればなり。織田嘉義の如きは、其多からざる者の瑞一か — 「西川嘉義碑(八事興正寺)」坪内雄蔵(逍遥)碑文(抜粋)[2]

二世鯉三郎の名古屋をどり

1940年昭和15年)に、西川石松の孫娘近藤静子の婿養子星合茂(近藤茂・西川茂)が(二世西川鯉三郎)を名乗り家元になったため、名古屋西川流の運営は、織田家士族)の西川幾・嘉義母娘と対立した西川石松(女役者)[7]の子孫・近藤家に入れ替わった。初代鯉三郎と二世鯉三郎との間にも師弟関係や血縁関係などは何もない。

1945年(昭和20年)から二世鯉三郎が名古屋をどりを開催した。1983年(昭和58年)に二世鯉三郎の長男西川右近(近藤雅彦)が三世家元を継ぎ、2014年平成26年)9月に右近の長男西川千雅(近藤千雅)が四世家元を継承した。

分裂と分派

1983年(昭和58年)7月31日に二世鯉三郎が亡くなり、西川右近が名古屋西川流三世家元を継ぐと、流派で内紛が起こり、家元の右近は1985年(昭和60年)4月8日に記者会見を開いて分家の実姉西川左近の絶縁を発表した[8]。1985年4月16日、左近も名古屋西川流の分家問題や名取免許授与をめぐり紛糾している問題で記者会見した。左近の分家独立は当時の新聞、週刊誌とマスコミを騒がせた。左近は分裂して東京で「西川流鯉風派」創流。

名古屋を拠点とする赤堀流、工藤流、内田流や、新舞踊の一派である芝流も、名古屋西川流の高弟によって創られた流派である。

門弟二代目西川式丸の弟子西川仲丸は新西川仲丸と改名し1956年に「新西川流」創流。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 小寺融吉. “日本の舞踊(創元選書75)234頁「西川石松と花子」”. 創元社、昭和23/. 2022年7月4日閲覧。
  2. ^ a b 尾崎久弥 1971, p. 58.
  3. ^ 長田若子 2012, p. 73.
  4. ^ 北見昌朗. “愛知千年企業 大正時代編 <コラム>日本国中を席巻した“名古屋美人””. 北見式賃金研究所/社会保険労務士法人北見事務所. 2022年7月4日閲覧。
  5. ^ 田中加代. “日本の伝統芸能における「芸」の伝承に関する教育思想史的考察 -日本舞踊家西川鯉三郎の芸道教育の系譜および特色をめぐって-”. 愛国学園短期大学. 2022年7月4日閲覧。
  6. ^ 小寺融吉. “日本の舞踊(創元選書75)234頁「西川石松と花子」”. 創元社、昭和23/. 2022年7月4日閲覧。
  7. ^ 長田若子 2012, p. 151.

参考文献

  • 「西川鯉三郎免許の跡」名古屋市教育委員会 資料[9][10]
  • 関山和夫著、名古屋市経済局観光貿易課 編『名古屋の芸能史跡 <史跡観光シリーズ>』(1983年)名古屋市。 
  • 名古屋市役所 編『名古屋市史人物編 下巻』(1934年5月28日川瀬書店発行の復刻版)国書刊行会、1981年10月20日。 
  • 『日本の舞踊』小寺融吉、1941年5月15日、創元社。
  • 小寺融吉 編『日本の舞踊』(1948版)創元社(創元選書75)。(NDLJP):1125393。 [11]
  • (服部鉦太郎)「西川流外伝天才舞踊家 西川嘉義」『郷土文化』第40巻第3号、名古屋郷土文化会、1986年3月、(NDLJP):6045176。 
  • 尾崎久弥『西川嘉義ー坪内逍遥を悔しがらせた最大級ー(名古屋芸能史 後編第30章)』名古屋市教育委員会〈名古屋叢書54〉、1971年12月20日。 
  • 長田若子 編『ホットマインド 名古屋の宝生流能楽師鬼頭嘉男が受け継いだもの』ブックショップマイタウン、2012年1月1日。 
  • 藤田洋『日本舞踊ハンドブック』2001年。ISBN (4-385-41046-1)。 
  • 演劇出版社 編『日本舞踊入門』2004年。ISBN (4-900256-89-7)。 
  • 『鯉三郎ノート』名古屋タイムズ社、1963年11月。(全国書誌番号):(20740979)。 

関連項目

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