生涯
神宮祭主藤波寛忠の子として、寛政4年(1792年)に生まれる。
寛政8年(1796年)、5歳で叙爵される。寛政12年(1800年)、元服、昇殿を許され、同日従五位上神祇権大副となった。文化3年(1806年)、父より祭主職を譲られる。文化9年(1812年)、21歳で従三位に叙され、公卿に列せられた。
官歴
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系譜
- 父:藤波寛忠
- 母:中山砥豫子 - 中山愛親女
- 兄弟:(三室戸陳光)、(澤量行)、ほか
- 姉妹:歌橋、ほか
- 妻:市橋津子 - 市橋長昭女[1]
- 妻:吉野はな - (吉野周悦)女
- 男子:藤波教忠
- 妻:清姫 - (山内豊敬)女、山内豊策養女
伝承
光忠には奈保子(なほこ)という娘がおり、遷宮勅使(庭田重胤)が明治元年(1868年)の参向してから寵愛を受けて、私通の末誕生した子供が(竹内巨麿)であるという。この奈保子は、明治8年(1875年)3月18日に巨麿と従者を連れ花見に出かけたが、暴漢に襲われて亡くなった[2]。しかしこれらには史的根拠が無く、(藤原明)は、出自を伊勢神宮に求めたという点に注目するべきだとしている[3]。
脚注
注釈
- ^ 『公卿補任』光格天皇文化四年条。父・寛忠が同日に辞しており、その後任となったことがわかる。
- ^ 『公卿補任』光格天皇文化六年条。同日、祖父季忠が後任の造宮使となった。
- ^ 『公卿補任』光格天皇文化九年条。母・中山砥豫子が死去したことによる。
- ^ 『公卿補任』光格天皇文化九年条。祖父季忠の、恵仁親王立太子の後の大殿祭勤仕の賞を譲られたことによる昇叙。
- ^ 『公卿補任』仁孝天皇文政二年条。(豊岡治資)の尻付に「同九二二任右兵衛佐」とあり、治資が文化9年2月2日(1812年3月14日)に任じられていること、また光格天皇文化九年条、光忠は神祇権大副のみ「如旧」であるから、従三位昇叙のときに辞したか。
- ^ 『公卿補任』仁孝天皇文政七年条。前日の18日に父・寛忠が神祇大副を辞したことによる。
- ^ 『公卿補任』仁孝天皇文政七年条。父・寛忠が薨去したことによる。
- ^ 『公卿補任』仁孝天皇弘化三年条。文政11年以降記述が見えないが、天保13年2月5日(1842年3月16日)に子・教忠が造宮使に補任されており、同日又はそれ以前に辞したか。
出典
参考文献
- 長峰浩 編『明治奇人今義経鞍馬修行実歴談』興国会、1912年。
- 『公卿補任』第五篇(黒板勝美・国史大系編輯会『新訂増補国史大系』所収)吉川弘文館、1974年。
- 霞会館 編『平成新修旧華族家系大成』《下巻》吉川弘文館、1996年。
- 藤原明『幻影の偽書『竹内文献』と竹内巨麿:超国家主義の妖怪』河出書房新社、2020年。