藤村 義朗(ふじむら よしろう、明治3年旧暦12月4日(1871年1月24日) - 1933年(昭和8年)11月27日[1])は、日本の実業家、政治家。爵位は男爵。幼名は狐狸馬。
来歴
生い立ち
本籍熊本県。貴族院議員・男爵、藤村紫朗の長男として京都で生まれる。1885年(明治18年)1月、山梨県立徽典館中学校を卒業し、細川護成の学友として、同年4月、イギリスに留学。ケンブリッジ大学卒業。1892年(明治25年)2月に帰国。
実業界・政界にて
九州学院(熊本済々黌)教授を経て、1894年(明治27年)4月、三井鉱山会社に入社し修業生となる。以後、庶務課勤務、本店事務員、兼三井物産参事などを務めた。1898年(明治31年)1月、三井物産に移り、参事、秘書課主任、船舶課主任、口之津支店長、船舶部長、ロンドン支店勤務、同支店長心得、本店勤務、本部参事、人事課長兼調査課長、上海支店長などを歴任。1918年(大正7年)1月、取締役となった。
1909年(明治42年)2月、父の死去に伴い男爵を襲爵。1916年には上海公共租界工部局董事会委員に当選した。1918年7月10日、第5回貴族院男爵議員選挙にて貴族院議員に選出され[2]、公正会に属す[1]。以来、第6回貴族院男爵議員選挙、第7回貴族院男爵議員選挙においても連続して貴族院議員に選出され、死去するまで活動した[1][3]。1924年(大正13年)1月、清浦内閣の逓信大臣に就任し、同年6月に同内閣が総辞職するまで在任。
その他、上海紡織有限公司専務取締役、大正日日新聞社長、全国養蚕組合連合会会長、国際観光委員会委員、国立公園委員会委員長などを歴任した。
政策
貴族院議員として院の改革を主張し、1921年に独自の改革案を纏めた書籍を自費出版するなど[6]、精力的に活動した。この改革案では、(皇族議員)以外の貴族院議員を「華族議員」と「勅任議員」の二つに大別し、双方を同数とすべきだと主張していた[6]。具体的には、華族議員の定数削減と勅任議員の定数増加を想定しており[6]、(男爵議員)であったにもかかわらず、華族の特権の行使について抑制的な考えを持っていた。さらに、貴族院議員の歳費全廃なども提案していた[6]。
また、貴族院議員の選出方法についても、改革の必要性を訴えていた。華族議員については、従来は公爵と侯爵は一律に貴族院議員に任じられていたが、これを改め、(公爵議員)と(侯爵議員)の選出にも互選制を導入するよう提案した[6]。勅任議員については、(多額納税者議員)の廃止を主張するとともに、(勅選議員)の選出に推薦制を導入するよう提案した[6]。また、これらの議員とは別に、王公族や朝鮮貴族に対しても一定数を割り当てるよう提案した[6]。
人物
議会では政府を鋭く追及し「カマキリ男爵」と呼ばれた[7]。
略歴
家族
栄典
著作
- 藤村増喜編『東野遺稿』横井半三郎、1936年。
脚注
- ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』83頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、27頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、43頁。
- ^ 小田部雄次『華族』中央公論新社、2006年、349頁。
- ^ 『官報』第3012号「華族ノ栄典喪失」1937年1月20日。
- ^ a b c d e f g 小田部雄次『華族』中央公論新社、2006年、200頁。
- ^ 参考文献『華族総覧』558頁。
- ^ a b 藤村義朗『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 中部磯次郎 明石から朝鮮へ片山俊夫、明石市、2019.6.29
- ^ 『現代華族譜要』 維新史料編纂会編、日本史籍協会、1929, p545
- ^ 『官報』第1255号・付録「叙任及辞令」1916年10月5日。
参考文献
関連項目
公職 | ||
---|---|---|
先代 犬養毅 | 逓信大臣 第28代:1924年 | 次代 犬養毅 |
日本の爵位 | ||
先代 藤村紫朗 | 男爵 藤村(紫朗)家第2代 1909年 - 1933年 | 次代 栄典喪失 |
ビジネス | ||
先代 新設 | 三井物産船舶部長 初代:1903年 - 1906年 | 次代 谷口武一郎 |