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藤原頼忠

藤原 頼忠(ふじわら の よりただ)は、平安時代中期の公卿藤原北家小野宮流藤原実頼の次男。

 
藤原 頼忠
時代 平安時代中期
生誕 延長2年(924年
死没 永延3年6月26日989年7月31日
別名 廉義公(漢風諡号)、駿河公(国公)、三条太政大臣
官位 従一位関白太政大臣正一位
主君 朱雀天皇村上天皇冷泉天皇円融天皇花山天皇一条天皇
氏族 藤原北家小野宮流
父母 父:藤原実頼、母:藤原時平の娘
養父:藤原保忠
兄弟 敦敏頼忠斉敏慶子源高明室、述子
養兄弟:佐理実資
厳子女王(代明親王の娘)
明祐の娘
源重信室、遵子公任、諟子、頼任、最円
(テンプレートを表示)

円融花山両天皇の関白で、後に太政大臣となる。しかし、天皇と外戚関係を得ることができず、藤原兼家との政争に敗れて、一条天皇の即位と共に関白を辞し、失意のうちに没した。

経歴

父・藤原実頼冷泉天皇関白円融天皇摂政を務めたが、これは冷泉・円融両帝の外祖父たる実頼の弟の師輔が没していたためで、摂関になったものの、実頼は思い通りに政治を主導できなかった。頼忠は始め母方の伯父である藤原保忠養子となったが[1]、保忠が承平6年(936年)に、続いて兄の敦敏天暦元年(947年)にいずれも早世したため、小野宮家の嫡男となる。頼忠が養父・保忠の財産を継承したことは、『朝野群載[2]から知ることが出来る。ただし、この時代の養子縁組には家の継承の要素は希薄で必ずしも実家との関係を断つものではなかったとされ、保忠の養子となった頼忠が実家の小野宮家を継ぐことは問題とされなかったと考えられている[3]

朱雀朝天慶4年(941年従五位下叙爵し、翌天慶5年(942年侍従に任ぜられる。右兵衛佐を経て、村上朝天暦2年(948年従五位上右近衛少将に叙任されると、天暦6年(952年正五位下、天暦9年(955年従四位下右近衛権中将と、村上朝前半は近衛次将を務めながら順調に昇進した。

天暦10年(956年)権左中弁に転じると、天徳4年(960年従四位上・右大弁と、村上朝後半は一転して弁官を務め、応和3年(963年参議に任ぜられ公卿に列した。参議昇進後も左右大弁を兼帯し、冷泉朝の安和元年(968年)に従三位中納言に叙任されて左大弁を辞するまで13年にもわたって弁官を務めた。昇進自体は決して早くはなかったが、弁官として太政官の実務に当たることが長く、故実・実務に通じた公卿としての素養を磨いた期間でもあった。

円融朝初頭の天禄元年(970年)、上位の中納言である藤原兼家橘好古を越えて権大納言に昇進し、左近衛大将を兼帯したのに続き、翌天禄2年(971年正三位右大臣に叙任された。

父・実頼の後を受けて摂政になっていた伊尹(師輔の長男で円融天皇の外伯父)が天禄3年(972年)に急死した際には関白候補の1人に挙げられる。当初、円融天皇は摂関を置かずに頼忠を内覧とする考えがあり、それを頼忠に内示していたとされる[4]。最終的には内覧宣下は伊尹の弟の兼通が受けた(後に関白)が、藤氏長者は頼忠が務めた。天延2年(974年)兼通が太政大臣となったことに伴い、頼忠は藤氏長者を兼通に譲った。

兼通は弟・兼家とは非常に不仲だったが、頼忠とは昵懇で政務の細かいことまで互いによく諮った。貞元元年(976年)12月に兼通は頼忠を一上に任じた。一上が特に定められていない場合には、摂関を除く最上位の公卿、当時の場合には左大臣源兼明が一上の職務を行う慣例となっていたが、兼通による指名によって賜姓皇族として人望の厚かった兼明の政治的権限が剥奪されてしまう。更に翌貞元2年(977年)4月には兼通は源兼明を親王に復帰させて、頼忠を左大臣となした。弟の兼家を憎悪する兼通は、自分の死後に自分の子供達より官位が上である兼家が1摂関の地位を占める事を恐れて、頼忠を自らの後継にしようと考えていた。この年の8月2日に内裏造営の功労に伴う叙位が行われたが、対象者の多さから儀式を全て終えたのが翌朝になるほどの大規模なものであったが、一上であった頼忠の奉行の下で滞りなく行われたという[5]

同年10月に重病のために危篤となった兼通は、兼家が自らの後継になることを防ぐために、無理を押して参内して最後の除目を行い、頼忠は関白の器であるとして職を譲り、逆に兼家から要職である右近衛大将を奪い、同じ日に頼忠は藤氏長者に復した。それから程なく兼通は薨去した。関白太政大臣となった頼忠だが、天皇との外戚関係がないことが弱味だった。『大鏡』によると、「よその人」(外戚)である頼忠は、関白となっても決して直衣では参内せずに(布袴)を着用し、清涼殿でも殿上間に控え、蔵人を通じて天皇に奏上した。また、円融天皇も親政への意欲から政務の全てを頼忠には一任せずに左大臣の源雅信に一上としての職務を行わせたために権力が分散され、その政治的基盤も不安定であった。この状況の中で、天元元年(978年)4月、頼忠は娘の遵子女御として入内させた。一方、しばらく不遇だった兼家であったが、同年6月に復帰参内すると、8月に娘の詮子を女御に入れた。更に10月に頼忠が太政大臣に進むと、兼家は右大臣に引き上げられた。天元5年(982年)遵子は中宮に立てられが、皇子を生むことはなく、世間からは「素腹の后」と揶揄された[6]。一方で詮子は懐仁親王を儲け、ますます兼家に有利な情勢となった。雅信とも兼家とも連携することが出来なかった頼忠の関白としての政治力は限定的なものとなり、政治権力も円融天皇・頼忠・雅信・兼家の4つに割れる中で政局は停滞し、「円融院末、朝政甚乱」(『江談抄』)として後々まで伝えられるほどであったという。

永観2年(984年)円融天皇は花山天皇譲位した。新帝の外祖父である伊尹が既に他界していたため、頼忠はそのまま関白に留まったが、東宮には懐仁親王が立てられた。頼忠は外戚たらんと花山天皇にも諟子を女御に入れるが、花山の寵愛は受けられず、やはり皇子は得られなかった。また、若年ながらも新帝の補佐役として権中納言に抜擢されて将来の大臣・関白の資格を得た藤原義懐(伊尹の五男で花山天皇の叔父)が加わった事で、更に頼忠の立場を不安定にした。こうした中で積極的に親政を進めようとする天皇及びこれを補佐する義懐と頼忠の確執は深まり、この年の12月28日に出された「令上封事詔」[7]では、「大臣重禄不諫」と書かれて頼忠以下諸大臣が天皇から糾弾される事態となっている。

兼家は懐仁親王の即位を望み、寛和2年(986年)策謀を講じて花山天皇を出家退位させてしまった(寛和の変)。幼い懐仁親王が即位(一条天皇)すると、外祖父たる兼家がいる以上、頼忠は関白を辞するほかなく、兼家が摂政となり朝政を完全に掌握した。頼忠は太政大臣の官職こそは維持したものの名目のみの存在と化した。

永延3年(989年)6月26日に失意のうちに(薨御)。享年66。最終官位は太政大臣従一位。没後正一位贈位を受け、駿河国に封じられた。廉義公

官歴

注記のないものは『公卿補任』による。

系譜

注記のないものは『尊卑分脈』による。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 公卿補任』応和3年条
  2. ^ 『朝野群載』巻21「長久五年権中納言家牒」
  3. ^ 栗原弘「平安前期の養子」(『平安前期の家族と親族』(校倉書房、2008年(平成21年)) (ISBN 978-4-7517-3940-2) 第三部第二章)
  4. ^ 『親信卿記』
  5. ^ 『柱史抄』
  6. ^ 『栄花物語』
  7. ^ 本朝文粋』所収、実際にこれを執筆した慶滋保胤の代表作としても知られる
  8. ^ 一説では(伊予権介)
  9. ^ a b c 『近衛府補任』
  10. ^ 一説では5月5日
  11. ^ 『日本紀略』
  12. ^ 『一代要記』
  13. ^ 『日本紀略』天元3年2月25日に裳着を行ったとの記載あり

出典

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