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荘子

荘子(そうし、Zhuang Zi、紀元前369年頃 - 紀元前286年頃)は、中国戦国時代の蒙(現在の河南省商丘市民権県)に生まれた思想家で、『荘子』(そうじ)の著者とされ、また道教の始祖の一人とされる人物である。姓は、名はは子休とされるが、字についての確たる根拠に乏しい。曾子と区別するため「そうじ」と濁って読むのが日本の中国文学・中国哲学関係者の習慣となっている[1]。『史記』には、「魏の恵王、斉の宣王と同時代の人である」と記録されている[2]

荘子
荘子

荘子が生まれた蒙の属する宋は当時弱小国の一つであった。荘子が生きていた時代に宋王剔成君は、弟のに追われ亡命し、偃がそのまま王位に就いた。しかし偃は暴逆により前286年、の連合軍により殺され、宋は分割され滅亡してしまう[3]

『史記』のある挿話には、楚の威王が荘子の評価を聞き宰相に迎えようとし、礼物を持って荘子を訪ねた。すると荘子は「千金は大したもの、宰相は最高の地位でしょう。しかし郊祭の生贄になる牛をご覧なさい。長年、美食で養われ、錦繍で飾られ、最後には祭壇にひかれていく。その時いっそ野放しの豚になりたいと思うも、手遅れなのです。わたしは自由を縛られるより、どぶの中で遊んでいたい。気の向くままに暮らしたいのです。」といい断った[4]

人物

荘子については複数のテキストや説が存在するが、それらの信頼性には様々な疑義があり、また相互に矛盾する記述もあるため、詳らかでない。たとえば『史記』巻63には荘子の伝があるが、これは司馬遷が当時の寓言を多く含む『荘子』から引いたものと推定されており、池田知久は「司馬遷が思想家たちの作ったフィクションを材料にして書いた荘子の伝記」と述べている。その他、『呂氏春秋』や『荀子』などにも記述が見られるが、いずれも『荘子』の影響を強く受けている[5]

思想

荘子の思想はあるがままの無為自然を基本とし、人為を忌み嫌うものである。老子との違いは、前者は政治色が濃い姿勢が多々あるが、荘子は徹頭徹尾にわたり俗世間を離れ無為の世界に遊ぶ姿勢で展開される。

軸となる傾向は徹底的に価値や尺度の相対性を説き、逆説を用い日常生活における有用性などの意味や意義にたいして批判的である。

こうした傾向を、脱俗的な超越性から世俗的な視点の相対性をいうものとみれば、従来踏襲されてきた見方であるが、老荘思想神秘主義思想の応用展開として読むことになる。他方で、それが荘子の意図であったかはもちろん議論の余地があるが、近年の思想研究の影響を受けつつ、また同時代の論理学派との関連に着目して、特権的な視点を設定しない内在的な相対主義こそが荘子の思想の眼目なのであり、世俗を相対化する絶対を置く思想傾向にも批判的であるという解釈もなされている。

荘子の思想を表す代表的な説話として胡蝶の夢がある。「荘周がを見て蝶になり、として大いに楽しんだ所、夢が覚める。果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て荘周になっているのか」。この説話の中に、無為自然、一切斉同の荘子の考え方がよく現れている。

近年では、方法としての寓話という観点や、同時代の論理学派や言語哲学的傾向に着目した研究もあらわれている。

荘子の「道」について

荘子における「道」の区分について

荘子の場合、「道」についての記述は、二種の思想に区分できる。

普遍的法則としての道

「道」と「無為」とを同一視して考える。 至人は、物との調和を保ち、その心が無限の広さを感得することをもって善しとする。(大宗師篇)[6][7]

根本的実在としての道

道は万物が皆よって生ずる根本的な一者であるとしている。道は無為無形の造物主として古より存在するが、情あり、信ありとされている[8]

自然の道から見れば、分散することは集成であり、集成することは、そのまま分散破壊することに他ならない。道を体得するとは、すべてを通じて一であることを知るということである。すべてのものは、生成(無為)と破壊・分散(有為)の区別なく道において一となっている、とされる(斉物論篇)[9]

著書『荘子』

著書とされる『荘子』(そうじ)は、西晋の郭象が刪訂した内篇七篇、外篇十五篇、雑篇十一篇の構成のものが現在に伝わっている。

内篇は逍遙遊、斉物論、養生主、人間世、徳充符、大宗師、応帝王

外篇は駢拇、馬蹄、胠篋、在宥、天地、天道、天運、刻意、繕性、秋水、至楽、逹生、山木、田子方、知北遊

雑篇は、庚桑楚、徐無鬼、則陽、外物、寓言、譲王、盗跖、説剣、漁父、列禦寇、天下 [10]

この現行『荘子』は、西晋の郭象が注釈を加えた際に刪定したものだが、『史記』には「荘子十余万字」とあり、現行より多いことがわかる。また『漢書』の芸文志には「五十二篇」あったと記録されているが、郭象の刪定したもの以外は現在見ることはできない[10]。これらのうち内篇のみが荘子本人の手による原本に近いものものされ、外篇・雑篇は弟子や後世の手によるものと見られている[11]

荘子「内篇」は逆説的なレトリックが随所に満ち満ちており、多くの寓話が述べられ、読者を夢幻の世界へと引きずり込む。

孔子と儒教

荘子は孔子を批判しているとされているが、文章をよく読むと孔子を相当重んじており、儒家の経典類もかなり読んだ形跡がある。このことから、古来より、荘子は儒家出身者ではないかという説があり、内容も本質的には儒教であると蘇軾が『荘子祠堂記』に於いて論じているほどである。白川静は孔子の弟子の顔回の流れを汲むのではないかと推定している。

道教

老荘思想が道教に取り入られ老荘が道教の神として崇められる様になっているが、老荘思想と道教の思想とはかけ離れているとされている。しかし、これに反対する説[誰?]もある。

後世への影響

老子と荘子の思想が道教に取り入られる様になると、荘子は道教の祖の一人として崇められるようになり、道教を国教としたは、皇帝玄宗により神格化され、742年に南華真人(なんかしんじん)の敬称を与えられた。また南華老仙とも呼ばれた。著書『荘子』は『南華真経』(なんかしんきょう)と呼ばれるようになった。『三国志演義』の冒頭に登場する南華老仙は荘子をさしている。

著名な語句

  • 衛生 庚桑楚篇から
  • 胡蝶の夢
  • 木鶏
  • 知魚楽
  • 万物斉同
  • 江湖 荘子内篇 逍遥遊第一
  • 庖丁解牛 - 庖丁という男が刀一本で一頭の牛を見事に解体した故事。転じて調理用の刃物を「包丁」と呼ぶ語源となった。
  • 寿(いのちなが)ければ則(すなわ)ち辱(はじ)多し 荘子・天地篇
  • 己を虚しくする 荘子・山木篇
  • 嚆矢 荘子・在宥篇
  • 無用の用 荘子・人間世篇
  • 萇弘は蜀に死す。其の血を蔵すること三年にして、化して碧と為る」(萇弘死于蜀,藏其血三年而化為碧) 荘子・外篇 (碧血碑碧血剣)
  • 心斎坐忘 - 修行の方法
  • 古人糟魄

出典

  1. ^ 玄侑宗久『NHK 100分de名著ブックス 荘子』2016年 NHK出版 5頁。
  2. ^ 岸陽子、松枝茂夫竹内好『中国の思想[Ⅻ]荘子』(第三版第一刷)徳間書店(原著1996年8月31日)、12頁。 
  3. ^ 岸陽子、松枝茂夫、竹内好『中国の思想[Ⅻ]荘子』(第三版第一刷)徳間書店(原著1996年8月31日)、13頁。 
  4. ^ 岸陽子、松枝茂夫、竹内好『中国の思想[Ⅻ]荘子』(第三版第一刷)徳間書店(原著1996年8月31日)、14頁。 
  5. ^ 橋本敬司「『荘子』研究への前哨」(『広島大学大学院文学研究科論集 特輯号 64-2』)11-13,18頁
  6. ^ こうした思想は、後代になって、解脱を目的とする禅宗の成立に大きな影響を与えたとされる。(出典『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社 1978年 P256の注 小川環樹)
  7. ^ また、「明」によって照らすとは、是非の対立を超えた明らかな知恵を持つことであり、絶対的な智慧を指し、こては仏教でいう無分別智にあたるとされる(出典『老子・荘子』講談社学術文庫 1994年 P178 森三樹三郎
  8. ^ 『中国古典文学大系4』平凡社1973年 P64 金谷治
  9. ^ 『老子・荘子』講談社学術文庫1994年P184森三樹三郎
  10. ^ a b 岸陽子、松枝茂夫、竹内好『中国の思想[Ⅻ]荘子』(第三版第一刷)徳間書店(原著1996年8月31日)、17頁。 
  11. ^ 福永光司『新訂 中国古典選 第7巻 荘子 内篇』1966年 朝日新聞社 14-15頁。

関連項目

関連文献

※購入しやすい書目のみ。

外部リンク

  • 『荘子』中英対照版
  • 『荘子』内篇の素読
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