芹川 得一(せりかわ とくいち、1857年(安政4年)[1][2] - 1923年(大正12年)2月[1][注 1])は日本の政治家。青森県青森市長。
来歴
陸奥国津軽郡弘前で津軽藩士芹川高正の家に生まれる[2]。東奥義塾に入り、キリスト教に入信する[2]。卒業後は同塾の教師となった[1][2]。1889年、弘前市発足後の弘前市会議員選挙に出馬して当選する[1][2]。2年後の1891年の府県制施行後の青森県会議員選挙に出馬して当選し、連続5期務める[1][2]。この間、県参事員も務めた[1][2]。
1904年1月に青森市長に就任[1][2]。在任中に青森港の外国貿易特別輸出港の指定に尽力、それが実現した。また、1908年に青森を発着とする青函連絡船が就航した。さらに上水道整備に着手した[1][2]。
市長は1908年まで務め、退任後は第五十九銀行頭取に就任した[1][2]。1922年まで務め[1]、翌1923年に死去した。
脚注
注釈
- ^ 『青森県人名事典』364頁には「大正11年(1922年)」と記載。
出典
参考文献
- 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第1巻、歴代知事編纂会、1983年。
- 『青森県人名事典』東奥日報社、2002年。