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立山重工業

立山重工業(たてやまじゅうこうぎょう)は、鉄道車両ロードローラーなどの特種用途自動車を製造していた日本企業1934年本江機械製作所(もとえきかいせいさくしょ)として設立され、富山県富山市下奥井1丁目に本社工場を置いた。1953年敦賀セメントへ納入した25t C型機まで、太平洋戦争中を中心に確認されている限りで460両以上[1]蒸気機関車を製造した。

沿革

  • 1934年4月 - 株式会社本江機械製作所設立[2]
  • 1939年12月 - 日本鉄道車輛製造工場組合加入
  • 1941年12月 - (車輛統制会)設立加入
  • 1943年4月 - 立山重工業株式会社と改称
  • 1946年6月 - 産業車輛工業会設立加入
  • 1949年3月 - 工場閉鎖[3]
  • 1950年10月 - 資産等を(道益産業)株式会社へ譲渡
  • 1952年3月 - 道益産業より立山重工業清算人へ資産等を返還
  • 1953年5月26日 - 清算人により資産の競売を実施。工場は大谷重工業株式会社社長の大谷米太郎が落札。これにより大谷重工業富山工場へ改称され、即日大谷製鋼所へ譲渡、大谷製鋼所立山工場へ改称。これと前後して機関車生産終了
  • 1957年 - 大谷製鋼所立山工場、富山工場へ改称
  • 1968年12月 - 大谷製鋼所解散
  • 1969年1月 - 旧大谷製鋼所富山工場、大谷製鉄株式会社として独立
  • 1988年 - 富山県新湊市(現射水市)に新工場を開設。旧工場を閉鎖

本江機械製作所はその名の通り技術者であった本江忠義らによって創設されたが、本江自身は本江機械製作所の設立から立山重工業の工場閉鎖までの間に一度も社長に就任しておらず、会社そのものは第二次世界大戦後の財閥解体まで大口の出資者となった野村財閥の傍系会社という位置付けであった。また、戦時体制下で軍用機関車製造を行っていたため、大戦末期には名古屋俘虜収容所第8分所が置かれ、戦時俘虜の労働派遣先に指定されていた。

立山重工業としての工場閉鎖は戦後の需要減[4]による経営難が主因であるが、その一方で戦後の労働運動に由来する人件費の激増と人員削減の困難化も大きな要因であった[5]

製品

 
国鉄B20形蒸気機関車
 
加悦鉄道C-160号蒸気機関車
 
静岡鉄道B15形蒸気機関車

創業から機関車製造終了まで、一貫して飽和式タンク式蒸気機関車を製造した。

最小のものは戊B6とカテゴライズされた610mm軌間用6t B型機、最大のものは大江山ニッケルに納入され、加悦鉄道で使用された40t C1型機(Nos.101-103)であった。

製造・納入実績のある機関車の軌間は610(戊)・762(丁)・1067(乙)mmの3種で、いずれも規格化された設計[6]によるものであった。

その基本構造は、背の高いサイドタンクなどに昭和初期の恐慌で会社消滅に追い込まれた雨宮製作所がその活動の末期に製造した、武利意森林鉄道18号形蒸気機関車などのサイド・ウェルタンク機との類似性が認められるが、その大半が資材難の戦時中に製造されたこともあり、リベット組み立てではなく電気溶接を多用し、規格材を最低限の加工で使用するよう図った、平滑かつ簡素で装飾を一切排した外観を特徴とする[7]。もっとも、簡素な設計の一方でボイラーの使用圧力は総じて他社製より高く設定される傾向があり、例えば森林鉄道向けでは当時10 - 12気圧程度が一般的なところ、13気圧に設定されていて、ピストン弁の使用と相まって、額面上大きな牽引力の発揮を可能としていた[8]

また、初期の製品や一部の小型機を除く大半の製品が前方視界を改善するためにサイドタンク前部を斜めに削っており、運転台の側窓の下辺がこのサイドタンクの上辺と揃えられていたこともあって、総じて腰高な印象の外観[9]であったことで知られる。

納入先は海軍日本製鐵向けなど産業用が大半を占めるが、燃料統制でガソリンカーの使用が困難となった1942年以降は各地の軽便鉄道・地方私鉄向けの小型機納入が戦後まで続いた。

さらに、規格化されたこれらの機関車の設計手法は、戦時中の車輛統制会においても「小型蒸気機関車専門委員会」によって産業用機関車の標準規格として採り入れられた。これに忠実に従う形で国鉄B20形が製造された他、北海道庁が道内産業の振興策の一環として1937年以降、鉱山機械の製造及び保守を行っていた札幌の中山鉄工所(後の中山機械)に本江機械製作所製10t C形サイドタンク機[10]をデッドコピーしたものを製造させ、更には同業かつ後発の協三工業などの機関車設計にも少なからぬ影響を及ぼしている。

もっとも、その製品全般に品質の低い代用材の多用や工法の極端な簡略化が見られた。このため、戦後1947年以降に世相が落ち着いてから製造されたものや、製鉄所などの重要産業鉄道向け[11]などの一部の例外を除き、高圧缶ゆえの蒸気漏れの頻発などによって、大半は戦後短期間で淘汰されている。

なお、いずれも飽和式タンク機関車であり、テンダー機関車や過熱式蒸気機関車の製造実績はない[12]

製品例

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 一説には468両とされる。ただし、創業から製造打ち切りまで一貫した製造番号が与えられておらず、460両以上であることはほぼ確実ながら、その正確な製造両数は判明していない。
  2. ^ 『日本全国諸会社役員録. 第43回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  3. ^ 事実上の倒産。ただし車両製造は少数ながらその後も継続。
  4. ^ 特に大口顧客であった海軍の消滅は大打撃となった。
  5. ^ 1947年9月17日に開かれた第1回国会参議院労働委員会(会議録はこちら [1])において、当時既に立山重工業の経営が事実上破綻していたことと、その一因が過大な余剰人員と労働運動の激化による賃金の高騰にあったことが地元富山県選挙区選出の小川久義議員により指摘されている。
  6. ^ これにより、本江→立山では軌間とトン数、それに軸配置を組み合わせて車種を表記した。例えば、国鉄B20形は乙B 20、井笠鉄道10は丁C 10、日鉄釜石C1 20形は丁C1 20となる。この分類・表記法は車輛統制会の小型蒸気機関車設計標準化に際してもそのまま採用された。
  7. ^ 本江機械製作所時代の初期製品では、リベット組み立てが多用されており、外観においても特にタンク部にリベットが目立っていたが、その後電気溶接の一般化で重要部を除く大半の接合部をこれに置き換えた。
  8. ^ ただし実際には戦中戦後の混乱期までに造られたものは粗製濫造傾向もあって保守面で不具合が多発し、短命に終わる一因となった。
  9. ^ 例外的に野尻森林鉄道へ納入されたNo.11は低重心設計であったが、これは既存のボールドウィン製B1タンク機関車を模倣することをユーザーである林野庁側から要求されたためであり、それでも運転台周りは腰高な規格設計を踏襲した結果、非常にアンバランスな設計となった。
  10. ^ 1935年に製造され、渚滑森林鉄道へNo.21として納入された。
  11. ^ 資材の供給割り当て等で優遇されていたためか、戦時中であっても丁寧に製造されており、ディーゼル機関車への置き換えや路線そのものの撤去が実施される1960年代まで問題なく実用に供され続ける例が多数見られた。
  12. ^ 現存する釜石鉱山鉄道C1 20形209号機はそのボイラーにシュミット式過熱装置を搭載しているが、これは第二次世界大戦後の改造で協三工業によって付加されたものであって新造時は飽和式であった。
  13. ^ 井笠鉄道ではこの車両の形式称号を「丁J10号形」と称したが、メーカー形式は先に触れたとおり「丁C10」であった。資料から設計認可申請書類への転記時のミスでCをJと誤読・誤記したと考えられる。

参考文献

  • 渡辺肇「立山重工業 -その蒸気機関車製造実績について・1-」、『SL No.9 1974』、交友社、1974年、pp62-64
  • 渡辺肇「立山重工業 -その蒸気機関車製造実績について・2-」、『SL No.10 1976』、交友社、1976年、pp70-78
  • 小熊米雄『日本の森林鉄道 上巻:蒸気機関車編』、エリエイ出版部 プレス・アイゼンバーン、1989年
  • 湯口徹『レイル No.30 私鉄紀行 瀬戸の駅から(下)』、エリエイ出版部 プレスアイゼンバーン、1992年

関連項目

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