穂波家(ほなみけ)は、藤原北家勧修寺流のうち勧修寺家の庶流の堂上家、家格は、名家。
権大納言・勧修寺経広の次男である権中納言・穂波経尚が、はじめ海住山(海住山寺に由来する)を称したが、寛文年間に穂波と改称したことに始まる。 穂波とは、歌に詠まれる伏見の田園に由来するとの説があるものの、詳らかではない。
初代・権中納言・穂波経尚以降、江戸時代の石高は、蔵米30石であったが、11代・穂波経度は、戊辰戦争の時、(錦旗奉行)・(大総督府)参謀を拝命、明治2年(1869年)、その勲功により賞典禄100石を下賜された。のちに元老院議官を務め、子の(穂波経藤)は華族に列して子爵を授けられた。
明治37年(1904年)、公家飛鳥井家に絡んだ戸籍法違反事件につき、経度及び経藤は拘留され、翌年明治38年(1905年)6月に至って爵位を返上した。