来歴・人物
西条高校を経て、立教大学に進学したが、2年で中退[1]。1950年3月に母校の西条高校の監督に就任した[2]。1956年の選抜高校野球で初めて甲子園への出場を果たし、1959年の全国高校野球では、エースの金子哲夫を擁し、初めて全国制覇を果たした[2]。1962年の岡山国体でも優勝を果たした[2]。
実績を買われて、1965年から1977年までに亜細亜大学の監督を務め、1971年の全日本大学野球選手権大会ではチームを優勝に導いた[2][3]。1978年から1991年までに同大学の総監督を務めた[2][3]。総監督の時も含めて、山本和行、大石大二郎、阿波野秀幸、与田剛、小池秀郎、パンチ佐藤らを育てた[2]。