白洲 退蔵(しらす たいぞう、1829年8月14日(文政12年7月15日) - 1891年(明治24年)9月10日)は、明治にかけて活躍した日本の役人、実業家である。神戸女学院の創設者の一人。白洲文平の父で、白洲次郎の祖父。
生涯
三田藩士
退蔵は1829年(文政12年)に三田藩内(現・兵庫県三田市)の薬師寺町に生まれる。父親は三田藩儒官[1]。幼名は純太郎。諱は良弼(りょうすけ)[2]。篠崎小竹、古賀謹一郎から学び、藩校「造士館」の教授になる。
1862年(文久2年)町奉行兼郡奉行になり、財政再建に取り組む。1863年(文久3年)に藩主九鬼隆義に請われて藩重役、大参事として藩政に加わる。良く時勢を洞察して、諸藩に先立って、古参の藩士たちを説得して、藩政の改革を着手する。特に、西洋文明を輸入することを勧め、中村敬宇、福沢諭吉[3]の翻訳所などを日々藩主に紹介して、閲覧を進めて、衣服や器具などすべてを西洋風にするようになった。また、退蔵の指導の元、藩兵の大胆な改革を行い、鎧冑をすべて売却して、西洋式軍装に350のスナイドル銃を持つようになる[4]。
三田藩の殖産興業に勤め、三田米を使用した「牡丹政宗」という銘柄を造ったり、三田牛(神戸牛)の飼育を奨励したりする。
1854年(嘉永7年)のペリーの黒船来航の時には、浦賀に出かけて農民の姿を装い情報を収集する。戊辰戦争の際には、藩論を統一して倒幕に加わる。
廃藩置県
1868年(明治元年)明治維新で、三田県大参事になる。しかし、小寺泰次郎と共に進めた厳しい政策により、農民一揆がおきている。川本幸民を講師として洋学を学ばせる。
志摩三商会
1871年(明治4年)の廃藩置県で九鬼隆義は三田藩知事の職を失い神戸に住む。退蔵は政府より民部省への仕官を打診されるが福沢諭吉の教えに従い固辞する。1873年(明治6年)退蔵は神戸で九鬼隆義、小寺泰次郎と共に、三田の士族の16名の出資により合名会社「志摩三商会」を設立し、九鬼隆義が総裁、白洲退蔵が社長に就任する[5]。
1875年(明治8年)退蔵は九鬼隆義の要請により[6][7]屋敷を提供して学校(後の神戸女学院)の創立に協力する。1880年(明治13年)兵庫県初代県会議員になる。
銀行頭取・役人
1882年(明治15年)8月、退蔵は、福沢諭吉と九鬼隆義の推薦により、横浜正金銀行(現・東京三菱銀行)の副頭取になる。また、翌年1月に第3代頭取になった後、3月に辞任し[8]、大蔵御用掛や岐阜県大書記官などを務めた。
晩年
1890年(明治23年)には、役人を辞職して九鬼家の主宰を務めた。1891年(明治24年)1月24日に九鬼隆義が死去すると、退蔵も9月1日に発病して、9月10日に死去する。享年63(満62歳没)。
家系
脚注
参考文献
外部リンク
- 白洲退蔵出生の地
- 神奈川県歴史博物館 歴代頭取
- 暦 オヤジ GORO のアラカンの日記・白洲退蔵
- 白洲退蔵とは何者であったか六 志摩三商会の裏事情(2)
- 神戸慶應倶楽部 社中の心 『三田の福澤先生と三田の九鬼藩主』(上の巻き)
- 大参事白洲退蔵