生涯
畠山氏は室町幕府三管領のひとつであり、政国はその嫡流筋である。しかし、幕政においては祖父畠山政長を細川政元に自害に追い込まれてより幕府参画の機会を失った上、嫡流の座をめぐって総州家と尾州家に分裂。尾州家有利といえども分裂状態は政国の代になってもなお解消されず、下剋上さえも起きる戦国時代にあって、守護の実権をめぐって重臣の権力争いに悩まされていた。
天文14年(1545年)、兄の稙長が死去すると重臣の遊佐長教に当主として擁立されたが、兄が室町幕府の権力者細川晴元に反乱を起こした細川氏綱に加担していたため、幕府から当主として認められず代わりに畠山晴俊(四郎)なる能登畠山氏の人物が擁立された。しかし、家臣の支持を得られず、すぐに排除された。長教ら家臣団は幕府の介入排除のため、政国擁立と氏綱援助を継続したが、政国は当主ではなく当主名代と認識されていた。
天文18年(1549年)、江口の戦いで長教が三好長慶と共に晴元派を打ち破り、晴元が13代将軍・足利義輝と共に畿内から逃亡すると、長教と方針を巡り対立して出家、紀伊国へ遁世した。引退後は政国の嫡男である高政が当主となっている[1]。
政国は天文19年(1550年)に没したと言われていたが[2]、天文21年(1552年)2月の段階で隠居として健在であった記録が存在するため、それ以降の死没と見られる[3]。また、兄弟の晴熙も播磨守を名乗っていたことと、かつて畠山弥九郎という人物が政国と同一人物扱いされていたことから、天文5年(1536年)から7年(1538年)までの晴熙の経歴、及び天文7年から10年(1541年)までの弥九郎の経歴が、政国の経歴と混同されてきた[4]。
脚注
参考文献
- 弓倉弘年『中世後期畿内近国守護の研究』(清文堂出版)、2006年。