略歴
晴俊は能登畠山氏の内紛によって能登を離れ京都に移り住んだ(畠山九郎)の一党と考えられ、弓倉弘年は天文14年(1545年)3月13日、幕府に太刀と馬を献上した畠山四郎を晴俊に比定している[1]。
天文24年(1555年)に起こった弘治の内乱で温井続宗・三宅総広らに擁立されて反乱軍の盟主となり、畠山義綱を籠城に追い込んだ。
その後、甲斐の武田信玄や加賀一向一揆、阿岸本誓寺などの援護を受けて戦勝を重ね、弘治3年(1557年)頃まで(勝山城)を拠点に活動した。しかし越後の上杉謙信や越中の(椎名宮千代)の支援を受けた義綱の反撃により、永禄元年(1558年)頃に勝山城は落城、晴俊も敗死したとみられる[2]。