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由比ヶ浜

由比ヶ浜(ゆいがはま)は、現在の神奈川県鎌倉市南部の相模湾に面した海岸の名称。海水浴場として有名[1]

由比ヶ浜
情報
所在地 神奈川県鎌倉市由比ガ浜四丁目または長谷二丁目
座標 北緯35度18分33.43秒 東経139度32分30.54秒 / 北緯35.3092861度 東経139.5418167度 / 35.3092861; 139.5418167座標: 北緯35度18分33.43秒 東経139度32分30.54秒 / 北緯35.3092861度 東経139.5418167度 / 35.3092861; 139.5418167
全長 1 km (滑川河口から砂浜の西端まで)
( )
三浦半島における由比ヶ浜の位置

概要

普通、滑川河口の西側の海岸とその周辺(由比ガ浜一丁目 - 四丁目付近)を由比ヶ浜、東側を「材木座海岸」と称している。現在は湘南の海として知られ、毎年夏になると多くの海水浴客が集まっている。

地勢

西側の長谷地区側から海岸に沿って形成された海浜砂丘帯である。砂丘の上は弥生時代末頃から人類の生活の場として利用されており、集落跡(竪穴建物群)のほか、古代-中世に至る墓地が見つかっている(長谷小路周辺遺跡)[2][3]

鎌倉時代には御家人同士の激戦地であり、現御成町にあった問注所での裁判の結果の処刑場でもあった。戦乱の有無に関わらず、中世に由比ヶ浜砂丘は集団墓地として利用されており(由比ガ浜南遺跡・由比ガ浜中世集団墓地遺跡)、現在でも人骨が埋まっており、建設工事に伴う発掘調査で当時の人骨が出土する[4][5]

源義経の妻妾静御前が、源頼朝配下に捕われて鎌倉に送られた後、義経の男児を出生するが、男子が生まれた場合は殺すという頼朝の命により浜に遺棄されたと伝えられている。また、有力御家人和田義盛もここで戦死したと伝えられ、供養塚の和田塚が所在する(和田合戦)。元弘の乱鎌倉の戦いにおいては、新田義貞稲村ヶ崎を突破して浜に進攻、幕府の滅亡を決定的にした。

2013年には鎌倉市が海水浴場の命名権を売りに出し[6]、『鳩サブレー』で知られる地元の菓子店・豊島屋が10年契約で権利を購入したが[7]、「親しんだ名を変えたくなかった」として名称変更を行わず従来の名称を維持している[8]

2018年8月5日、シロナガスクジラの死骸が打ち上げられているのが発見された。体長10 mほどの本年生まれの子どもでオスと見られている。シロナガスクジラが日本の海岸に打ち上げられ、生物学的な調査ができるのは初めてであり、調査のために国立科学博物館が引き取ることになった[9]

町名の由比ガ浜

日本 > 神奈川県 > 鎌倉市 > 由比ガ浜
由比ガ浜
 
 
由比ガ浜
由比ガ浜の位置
北緯35度18分55.53秒 東経139度32分47.21秒 / 北緯35.3154250度 東経139.5464472度 / 35.3154250; 139.5464472
  日本
都道府県   神奈川県
市町村   鎌倉市
地域 鎌倉地域
面積
 • 合計 0.63 km2
人口
2018年(平成30年)1月1日現在)[11]
 • 合計 4,624人
 • 密度 7,300人/km2
等時帯 (日本標準時)
郵便番号
248-0014[12]
市外局番 0467 ((藤沢MA))[13]
ナンバープレート 横浜

由比ガ浜(ゆいがはま)は神奈川県鎌倉市鎌倉地域にある地名。現行行政地名は由比ガ浜一丁目から由比ガ浜四丁目。住居表示実施済み区域[14]郵便番号は248-0014[12]

歴史

1889年(明治22年)、東海道本線が開通したことにより、鎌倉に別荘が建設されるようになる。1902年(明治35年)には江ノ電も開業し、腰越長岡地区は別荘地として発展していく。大正時代に入るとバスも開通し、交通の利便性が高まる。これに伴い由比ヶ浜も海水浴場として発展していく。1934年(昭和9年)には「鎌倉カーニバル」、1949年(昭和24年)には「鎌倉花火大会」もスタートし、鎌倉の街全体で夏とビーチを楽しむことが一般化し始める。戦後は国道134号線が開通したこともあり、海水浴客は毎年記録更新され、1964年(昭和39年)にはおよそ415万人を記録。自家用車、オートバイと移動手段も増え、多くの人が由比ガ浜を楽しむようになった。

1979年、町内に居住する実業家が商品開発の材料として大量の酸化トリウム(IV)を保有していたことが発覚。一部が庭先に野積みにされていたため、科学技術庁により住宅周辺で放射能測定器を用いた調査が行われた(結果的に立ち入り規制などの措置は無し)[15]

沿革
高砂海浜住宅地

由比ガ浜二丁目には、松方正義が晩年暮らした4000坪の「鶴陽荘」があったが、没後松方家を離れ、1937年に2600坪が13区画に分割されて「高砂海浜住宅地」として分譲された[16]。敷地内には、松方家の屋敷神であった高砂稲荷が現存する[16]

世帯数と人口

2018年(平成30年)1月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[11]

丁目 世帯数 人口
由比ガ浜一丁目 501世帯 1,040人
由比ガ浜二丁目 845世帯 1,785人
由比ガ浜三丁目 406世帯 880人
由比ガ浜四丁目 410世帯 919人
2,162世帯 4,624人

小・中学校の学区

市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[17][18]

丁目 番地 小学校 中学校
由比ガ浜一丁目 全域 鎌倉市立御成小学校 (鎌倉市立御成中学校)
由比ガ浜二丁目 全域 鎌倉市立第一小学校 (鎌倉市立第一中学校)
由比ガ浜三丁目 全域
由比ガ浜四丁目 全域

交通

登場作品

出典

  1. ^ 鎌倉市/8 由比ケ浜海岸
  2. ^ 鎌倉市教育委員会 2001 p.3
  3. ^ 鎌倉歴史文化交流館 2021 pp.26-27
  4. ^ 鎌倉市教育委員会 1998 pp.10-11
  5. ^ 鎌倉市教育委員会 2003 pp.5-6
  6. ^ . 神奈川新聞. (2013年4月4日). オリジナルの2021年3月9日時点におけるアーカイブ。. 2021年3月9日閲覧。 
  7. ^ . 神奈川新聞. (2013年5月16日). オリジナルの2021年3月9日時点におけるアーカイブ。. 2021年3月9日閲覧。 
  8. ^ . 神奈川新聞. (2014年5月16日). オリジナルの2020年12月4日時点におけるアーカイブ。. 2021年3月9日閲覧。 
  9. ^ “”. NHK NEWS WEB. 2018年8月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年8月6日閲覧。
  10. ^ “平成28年(2016年)版鎌倉の統計”. 鎌倉市. 2018年2月22日閲覧。
  11. ^ a b “鎌倉の人口と世帯数(地域・町丁・字別)”. 鎌倉市 (2018年1月26日). 2018年2月22日閲覧。
  12. ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2018年2月22日閲覧。
  13. ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2018年2月22日閲覧。
  14. ^ “鎌倉市の町名称及び住居表示の実施状況”. 鎌倉市 (2017年2月7日). 2018年2月22日閲覧。
  15. ^ 核物質を無防備貯蔵 鎌倉の会社社長 周辺、大丈夫というが『朝日新聞』1979年(昭和54年)7月7日朝刊13版 23面
  16. ^ a b 『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 明治・大正篇』竹内正浩、実業之日本社, 2017, 「第一章 松方正義」の項
  17. ^ “鎌倉市の市立小学校通学区域”. 鎌倉市. 2017年7月6日閲覧。
  18. ^ “鎌倉市の市立中学校通学区域”. 鎌倉市. 2017年7月6日閲覧。

参考文献

  • 鎌倉市教育委員会 1998「由比ヶ浜南遺跡」『鎌倉の埋蔵文化財2-平成8年度発掘調査の概要-』鎌倉市 pp.10-11
  • 鎌倉市教育委員会 2001「長谷小路周辺遺跡」『鎌倉の埋蔵文化財4-平成10・11年度発掘調査の概要-』鎌倉市 p.3
  • 鎌倉市教育委員会 2003「由比カ浜中世集団墓地遺跡」『鎌倉の埋蔵文化財6-平成12・13年度発掘調査の概要-』鎌倉市 pp.5-6
  • 鎌倉歴史文化交流館 2021「鎌倉の黎明」『頼朝以前~源頼朝はなぜ鎌倉を選んだか~』(企画展「頼朝以前」展示図録)

関連項目

外部リンク

  • 由比ガ浜.com|由比ガ浜(由比ヶ浜)海水浴場オフィシャルサイト - 運営団体 由比ガ浜茶亭組合
  • 国立国会図書館デジタルコレクション - 山名留三郎『鎌倉旧蹟地誌』/冨山房、1895年5月
  • 鎌倉市/海水浴場
  • 鎌倉市/由比ガ浜海水浴場
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