概要
(田峰菅沼家)(菅沼氏)の本城であった。別名は蛇頭城(じゃずがじょう)。(笹頭山)の中腹に位置する。
歴史
- 文明2年(1470年) - (菅沼定信)が田峯城を築城して本城にする。定信は菅沼一門の総領家・(田峰菅沼家)(菅沼氏)の祖となる。菅沼一門は田峯から豊川流域への版図を拡げる事に腐心する。
- 天正3年(1575年)5月21日(1575年7月9日) - 長篠の戦いで大敗した武田勝頼を伴い、田峯城での慰労を予定していた城主・菅沼定忠(刑部少輔)であったが、留守居の親族・菅沼定直や家老・今泉道善が入城を拒絶。僅か数騎の勝頼一行は身柄を拘束されそうになった為、更に北方の武節城まで命からがらの逃避行を強いられた。
- 天正4年(1576年)7月14日(1576年8月18日) - 前年の入城拒絶という辱めを怨んでいた菅沼定忠は、田峯城を早朝に急襲。老若男女を問わず、城に居た96人総てを惨殺した。菅沼定直や今泉道善に関しては、生け捕りにした後で鋸挽きの刑で報復している。城の近くには「田峯城内乱の首塚」と「道善処刑の地」が存在する。
- 天正10年(1582年) - 甲州征伐で武田勝頼が滅ぼされ、後ろ盾を失った菅沼定忠も討たれた。田峯菅沼氏は徳川家康の後ろ立てにより、菅沼定利が継いだ。この頃、田峯城が廃城となる。
構造
丘陵地の上に本丸が置かれ、本丸の周りに武家屋敷などが築かれている。城内にあった復元本丸御殿、本丸大手門、搦手門が復元されている。
画像
復元された本丸大手門
復元された物見台
「田嶺城址」の碑
田峯観音の駐車場から望む田峯城
現地情報
- 所在地
- アクセス
- 周辺施設
脚注
関連項目
外部リンク
- 田峯城 愛知の公式観光ガイド AICHI NOW