田峰観音(だみねかんのん)は、愛知県北設楽郡設楽町田峯にある曹洞宗系統の単立寺院[1]。
田峰観音(高勝寺) | |
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所在地 | 愛知県北設楽郡設楽町田峯鍛治沢14 |
位置 | 北緯35度03分33.4秒 東経137度31分52.4秒 / 北緯35.059278度 東経137.531222度座標: 北緯35度03分33.4秒 東経137度31分52.4秒 / 北緯35.059278度 東経137.531222度 |
山号 | 谷高山[1] |
宗旨 | 単立[1] |
本尊 | 松芽観世音菩薩 十一面観世音菩薩[1] |
創建年 | 1470年 |
開基 | (菅沼定信)(田峯菅沼氏) |
札所等 | 三河三観音 奥三河七観音 |
文化財 | 田峯田楽(国の重要無形民俗文化財) 田峰観音の舞台(愛知県指定有形文化財) 梵鐘(設楽町指定有形民俗文化財) |
法人番号 | 2180305007811 |
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概要
特色
岡崎市の渭信寺、豊橋市の東観音寺とともに三河三観音のひとつである[1]。長全寺、正養寺、勅養寺、満光寺、常福寺、立岩観音、庚申寺(すべて新城市)とともに奥三河七観音の第4番である[2]。
毎月17日には月例祭(観音供)が行われ、毎年2月第2土曜日・日曜日の大祭では田峯田楽(国の重要無形民俗文化財)や奉納歌舞伎が行われる[3]。境内には田峯田楽を奉納する際に役者が身を清める田峰観音浄水がある[4]。
歴史
寺伝によると、松芽観世音菩薩は慶雲2年(705年)3月17日に宝飯郡行明から勧進したと伝えられている[1]。
文明2年(1470年)には田峯菅沼氏の(菅沼定信)が田峯城を築城し、田峯城の鎮護のために高勝寺と称する堂宇を建立した[1][5]。当初は高松寺と称していた[6]。この際に京都から十一面観音菩薩を勧進し、松芽観音菩薩と合祀している[1][5][6]。文明13年(1481年)には境内の梵鐘が作られた[3]。
菅沼定忠の時代である永禄2年(1559年)の大祭から田楽を取り入れている[5]。正保元年(1644年)に同じく田峯の日光寺が焼失し、再建のために段戸山の御料林を誤って伐採してしまった[5]。これにより代官に盗伐の疑いをかけられたため、田峰観音に歌舞伎を奉納して願掛けした[5]。代官が御林検分する日は6月にもかかわらず、雪が降って切株が覆い隠され、村人は盗伐の重罪を免れた[5]。これ以後、田峰観音の大祭では戦時中も休むことなく奉納歌舞伎が続けられている[5]。
明治期の廃仏毀釈で高勝寺は廃寺となり、日光寺の境外仏堂である大悲閣高山観音堂として管理された[1]。1942年(昭和17年)には宗教団体法の発布によって独立し、段嶺村の村営(信徒総代による運営)となった[1]。
境内
境内の南側にある駐車場からは、南方の田峯城や東方の鞍掛山を見渡すことができる[1]。駐車場からは石段の参道が上っており、参道の両脇にはスギの巨木が植わっている。境内の正面に本堂や拝殿があり、境内の右手に歌舞伎舞台(田峰観音の舞台)がある[1]。同じく田峯には曹洞宗の日光寺があり、かつて高勝寺は日光寺の末寺だった[1]。
境内一覧
- 奥殿
- 本堂
- 御宝殿
- 拝殿
- 庫裡
- 額堂
- 歌舞伎舞台(田峰観音の舞台)
- 休憩接待所
- 観音事務所
文化財
重要無形民俗文化財(国指定)
- 無形民俗文化財
愛知県指定文化財
- 有形民俗文化財
設楽町指定文化財
現地情報
所在地
アクセス
周辺施設
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『設楽町誌 通史編』設楽町、2005年、pp.321-322
- ^ 奥三河七観音は特番も含めて8寺からなる。
- ^ a b c d e 田峰観音 キラッと奥三河観光ナビ
- ^ 田峯観音浄水 いいのんとよがわ
- ^ a b c d e f g 田峰観音奉納歌舞伎 設楽町観光協会
- ^ a b c 『設楽町誌 村落誌』設楽町、2001年、p.401
- ^ 「田峰観音様に新しい本堂を 高勝寺が増改築へ」中日新聞、2002年2月7日
- ^ a b c 『設楽町誌 村落誌』設楽町、2001年、p.560
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『設楽町誌 村落誌』設楽町、2001年、pp.558-559
- ^ a b c 田峯十一面観世音菩薩音 高勝寺
参考文献
- 『設楽町誌 村落誌』設楽町、2001年
- 『設楽町誌 通史編』設楽町、2005年
関連項目
外部リンク
- 田峰観音 キラッと奥三河観光ナビ