来歴・人物
九州学院高から神戸学院大学に進学[1]。もともとは外野手であったが高校3年の時に投手に転向し大学でも投手として活躍[1]。関西大学野球連合の下部リーグである阪神大学野球リーグでは2回優勝、2年春と秋にノーヒットノーランを記録した[1]。1974年秋季リーグ優勝後の入替戦で大阪学院大を降し、関西六大学野球リーグに昇格。1976年春季リーグでは3位と健闘。リーグ通算成績は36試合登板、8勝21敗、防御率3.29。
1976年オフにドラフト外で阪急ブレーブスに入団し、野手転向[1]。1979年には俊足を買われ、主に代走として26試合に出場。翌1980年11月には二塁手として初先発出場を果たす。しかしその後は出場機会がなく、1982年限りで現役を引退した[1]。
引退後は1993年頃にオリックス・ブルーウェーブにスコアラーとして復帰。1999年に山田久志監督が就任した中日ドラゴンズにスコアラーとして移籍した。2009年当時は中日ドラゴンズイヤーブックによると、監督付きスコアラーとなっている。2012年からは横浜DeNAベイスターズでスコアラーを務める。退団後は高槻市シルバー人材センターで理事を務める[2]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1979 | 阪急 | 26 | 1 | 1 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
1980 | 1 | 4 | 4 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .250 | .250 | .250 | .500 | |
通算:2年 | 27 | 5 | 5 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .200 | .200 | .200 | .400 |
記録
- 初出場:1979年4月9日、対南海ホークス前期2回戦(阪急西宮球場)、5回裏に中沢伸二の代走で出場
- 初盗塁:1979年4月10日、対西武ライオンズ前期1回戦(阪急西宮球場)、8回裏に2盗(投手:古沢憲司、捕手:野村克也)
- 初打席:1979年4月12日、対西武ライオンズ前期3回戦(平和台球場)、8回裏に山下律夫の前に凡退
- 初先発出場:1980年11月8日、対近鉄バファローズ前期13回戦(藤井寺球場)、2番・二塁手で先発出場
- 初安打:同上、久保康生から単打
背番号
- 59 (1977年 - 1982年)
脚注
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 田中彰 - NPB.jp 日本野球機構