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瓜生氏(うりゅうし)は、越前国今立郡(瓜生村)・杣山城を本拠とする日本中世の豪族である。
瓜生氏 | |
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本姓 | 嵯峨源氏渡辺氏流 |
家祖 | (瓜生種) |
種別 | 武家 |
出身地 | 越後国三島郡(瓜生)? 越前国今立郡(瓜生村)? |
主な根拠地 | 越後国 越前国 |
著名な人物 | 瓜生保 瑩山紹瑾 |
(凡例) / (Category:日本の氏族) |
歴史
始祖
先祖は嵯峨源氏流渡辺綱の(曾孫)の伝(筒井久の孫、(安)の子)で、その(後裔)の(瓜生種)(重の孫、(学)の子)が鎌倉幕府の御家人を経て、越後国三島郡(瓜生)[1]の地頭職として、赴任したことから、瓜生氏と名乗ったとする。
鎌倉時代
種は承久の乱で、後鳥羽上皇に従って、鎌倉幕府の執権・北条得宗家と戦って敗れて、一時的に瓜生氏は勢力を失ったという。
南北朝時代/室町時代
瓜生種の子の(瓜生貞)が文永年間(1264年 – 1274年)に越前国今立郡へ移住した。その子の(瓜生衡)(衛)の時代に同国杣山[2]に移住した。その子の瓜生保は、初めは足利尊氏に従うも弟たちの猛反発を受け、新田義貞に帰参して後醍醐天皇より従五位下検非違使判官に任じられた。
保と義貞の戦死、後醍醐天皇の崩御以降の瓜生氏は足利将軍家に仕えた。
戦国時代以降
戦国時代以降の瓜生氏の動向を記す文書などが不明であり、その後の動向は定かではないが、明治時代に瓜生氏の末裔が1911年(明治44年)に建てた瓜生 保の墓がある。