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王衍 (西晋)

王 衍(おう えん、甘露元年(256年) - 永嘉5年4月1日[1]311年5月5日))は、西晋の政治家・武将。夷甫本貫琅邪郡臨沂県。父は平北将軍の(王乂)。子は王玄。族弟は王敦王導。従兄に竹林の七賢で有名な王戎、弟に(王澄)と(王詡)がいる[2]

生涯

若い頃から聡明で容姿端麗、典型的な貴公子の風流を持っていたという[2]

幼い頃に父に伴われて竹林の七賢の一人の山濤の屋敷を訪れたが、その際に山濤は王衍の才智と容姿にすっかり心を奪われた[2]。そして親子が辞去するのを見送りながら、「どんな母親からこんな素晴らしい少年(原語では寧馨児、すなわちこんなにも良い子供の意)が生まれることやら。しかしひょっとすると、あんなのが今に天下国家を誤るようなことをしでかすかもしれんて」とひとりごちたという[3]

成長するにつれて王衍の才能と容姿はますます光輝き[3]司馬炎(武帝)や王戎からも高く評価を受けるようになった。そのため彼は若くして名門王氏の俊秀として人々から将来を嘱望されるようになり、官位は昇進して黄門侍郎となった[3]。だが山濤の不安は的中し、王衍はその才能を国政に生かそうとはせず、政界で生活を送りながらも老荘虚無の清談に情熱と心を傾けるようになった[3]。ただし王衍の清談は見事で、えもいわれぬ品の良さや名句を吐いて相手をやりこめて人を皆心服させて「口中の雌黄」(雌黄とは硫黄と砒素を混ぜた土絵具で、当時の黄色の紙に書いた文字に誤りがあれば雌黄で塗り消したため)と評された[3]。こうして無為の日々を送りながらも名門の故か、彼は官位をますます昇進させ、周囲の人々はその風雅を慕って門下に集まり、遂には西晋の政界自体が清談の道場になり立身出世には清談が手立てになるまでの流行をきたした[3]

しかし当時の西晋は八王の乱永嘉の乱と内は皇族の権力闘争、外は異民族の中国内地の侵入と危機的状況にあり、王衍のこのような行為は平和なら賞賛されても動乱期では弱弱しくて頼りないといえた[4]光熙元年(306年)12月、八王の乱が最終的に東海王司馬越により終結すると[5][6]、王衍は政権を握った司馬越に接近して有能な人材の登用を提言した。この頃からようやく王衍は司馬越と協力して政権に参加し、永嘉2年(308年)に漢(後の前趙)の王弥石勒洛陽に侵攻してくると、これを破り尚書令太尉になった。武陵公も叙爵されたが、これは拒絶している。またこの侵攻で洛陽の士人・市民が遷都を求めると、王衍はこれを鎮めて人心を得ている。その後も司馬越と共に崩壊寸前の西晋を支え、劉聡の漢軍を破るなど活躍した。

しかし司馬越と彼に擁されていた懐帝との対立が表面化し、懐帝が司馬越討伐の勅命を発したために王衍は司馬越と共に項城に逃亡し、ここで司馬越より軍司・太傅とされて軍の指揮を任された。永嘉5年(311年)3月、司馬越が憂憤のために急病で死亡すると、司馬越軍10万の後任の元帥に王衍が推挙され[7]、太子の司馬毗を補佐した。これは王衍が太尉の重職にあったためもあるが、彼は「私は昔から役人勤めなどは性にあわなかったのに、だんだん押し上げられてしようことなしに太尉にまでなってしまった。なれど今日の事態はまことに重大、私のような者ではとても手に負えることではない」と拒絶した[7]。しかし結局は彼が軍を引き継ぎ、4月1日に司馬越の葬儀のために、司馬毗を喪主とした司馬越の遺骸を連れて東海国に退却していた際、漢の石勒に襲撃されて軍は壊滅・殺戮され、太子司馬毗は捕虜にされ、王衍は捕えられて石勒の前に引き出された[7]

この際、王衍はおろおろしながら「私の仕官は本意ではなく、今回の抗戦も実のところ私の与り知った事ではない」などと述べ立てて命乞いしたため、石勒はその姿に情けなさと怒りを覚えて「貴方は太尉の要職にあり、天下の名流であろうに、今さら国家の大事に与り知らん身だと言えた義理か。晋の天下をめちゃくちゃにしたのは貴方の責任だ」と怒鳴りつけ、ひとまず獄舎に入れた[7]。しかし獄舎に引き立てられる際も泣き叫ぶ王衍の後姿を見て[7]、さすがに石勒にも憐憫に似た感情が湧き出し、また一説にはこんな腐った人物に刀はもったいないのではと処刑をためらいだし、助命しようとした[8]。しかし配下の孔萇が「王衍は晋の重臣。助命しても我がほうのためになるとは思いません」と石勒に処断を進め、石勒はそれを承諾して夜中に王衍を戸外に連れ出し、壁を押し倒してその下敷きにして圧殺した(これは石勒が首を刎ねるのが惨すぎると考えたためとも、逆に刀の穢れになると怒ったためともされる)[8]。享年56。殺される直前、王衍は「わしはもとより聡明な古人に及びもつかぬ。なれどもし、先の日にとりとめない虚無の清談なんぞに心ひかれることをせず、力を合わせて国家のためを図ったとしたら、今日このような有様になり果てることはなかったであろうに」と漏らしたとされる[8]。西晋亡国の一因には戦乱に無意味な清談も挙げられる王衍の告白であった[8]

司馬越・王衍の死で西晋は求心力を失い、王衍の死からわずか2カ月後の6月、石勒の侵攻により洛陽は陥落して西晋は事実上滅亡した[9][10][5][6]

永和12年(356年)、東晋桓温が北伐を行った際、船から華北の中原を眺めながら「神州を陸沈し、百年丘虚たらしむ(中国国土を陸地が沈んでしまったように蛮族の荒すに委せた)。王夷甫らが清談をこととして国家を省みなかった責任は免れることができぬ」と王衍の行いを批判している[11]

家族

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 晋書』巻5, 懐帝紀 永嘉五年四月戊子条による。
  2. ^ a b c 駒田『新十八史略4』、P76
  3. ^ a b c d e f 駒田『新十八史略4』、P77
  4. ^ 駒田『新十八史略4』、P78
  5. ^ a b 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P58
  6. ^ a b 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P48
  7. ^ a b c d e 駒田『新十八史略4』、P79
  8. ^ a b c d 駒田『新十八史略4』、P80
  9. ^ 駒田『新十八史略4』、P60
  10. ^ 駒田『新十八史略4』、P61
  11. ^ 駒田『新十八史略4』、P112

参考文献

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