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王シフト

王シフト(おうシフト)は、読売ジャイアンツ王貞治が打席に立った際、対戦チームが敷いたシフト[1][2][3]。特に、広島カープ(現・広島東洋カープ)白石勝巳監督(当時)が1964年頃に考案した配置に対してこの呼称を用いる[2][4][5]。 

解説

広島カープ監督の白石勝巳は対巨人の戦いに於いて、「せめてON砲のどちらかだけでも抑えられないか」と考えた[2]。白石は合理主義者で、直感力に長けた長嶋茂雄より王の方が対策を見出し易いのではないかと考えた[2]。白石は王の打球が極端に右方向に多いことを試合の中で感じており、広島カープのスコアラー・川本徳三に王の打球の方向をデータ分析させた[2]。地元企業で後に広島に資本協力をすることになる東洋工業(現マツダ)は車体設計の計算を行うため早くからコンピュータを導入しており、川本は最先端の頭脳を野球に利用出来ないかと常々考えていた。コンピュータを使って、王のデビュー戦以来の全打席の打球方向を集計すると7割がセンターから右方向との結論を得た[2][4]。その報告を受け、白石は「打球の7割がライト方向なら、守備位置を右に寄せればいい」と考えた[2]。「しかし王が流し打ちをしてきたら」とコーチ陣は反論した[2]。白石は「一本足打法はタイミングが命。もし流し打ちをしたらバッティングフォームを崩す。修正するには時間が掛かる。王は絶対に引っ張ってくる」と王の自尊心を見抜いていた白石はコーチ陣を説得した[2][4]。白石は巨人OBでもあり、王の性格は分かっていた。「ホームランなら仕方ないよ。やろう」と王シフトは実行に移され[2][6]、一塁手を一塁線へ、二塁手をより一塁側へ、遊撃手は二遊間へ、三塁手は遊撃手の守備位置へ、外野手はそれぞれ右方向へ移動。結果フィールドの右半分に野手が6人という極端なシフトが敷かれた[7][8]

この『王シフト』が初めて行われたのは1964年5月5日後楽園球場での巨人対広島ダブルヘッダーでの第二試合7回裏であり、この時守備についていた選手は

というメンバーであった[3][9]

しかし、王は王シフトを眼前にしても「狭くなった間を抜けていくような強い当たりを打ってやる、頭の上を越えてスタンドまで届かせればいいんだろ」と逆に闘志を燃やした」と語っている[3]。白石も自著の中で、自らの狙いに反して自分のスタイルを貫き通した王の精神力の強さを高く評価している[2]

王は5月3日の試合(阪神戦)で1試合4打席連続本塁打を放っており、5月5日のダブルヘッダー第1試合(巨人-広島7回戦)の第1打席は5打席連続の新記録がかかっていた。しかし、結果は大羽進が2球目に投じた内角高めのシュートでファーストライナーに仕留められ、新記録達成はならなかった[2]。第1試合は4打席無安打[7]。試合も3対2で広島の勝利。続けて王シフトを挙行した第2試合(8回戦)では、シフトを開始した打席でバックスクリーンのわずか右へ18号ホームランを放たれるなどして4打数3安打を決められる結果となり、このシフトは功を奏しなかった[9]。しかし、このシフトは多少なりにもプレッシャーにはなったようで、例えば翌日の9回戦では遊飛と3つのセカンドゴロなどで5打数無安打に抑えたり、1964年の対広島戦の王の成績は打率.291、本塁打数は対戦した5球団で最も少ない7、本塁打率11.29であり、シーズンの成績(打率.320、55本塁打、本塁打率8.58)からみればまずまず成果はあったと「記録の神様」と呼ばれた宇佐美徹也は一応の評価をしている。

王は結局、王シフトをされても最後まで流し打ちをしなかったが、同年7月15日の広島戦で一度だけ三塁方向にバントしたことがある[2]。バントした打球は誰もいない左翼方向を外野まで転がり、この間に王は二塁まで進んだ[3]。このプレーは誰にもエラーがつかなかったため、王の二塁打が記録された。この「バントで二塁打」という珍記録も王シフトの副産物だった。王は後に、この日の先発だった大石清が絶好調で、このバントの前まで一人も出塁を許していなかったことから「何とか出塁しようと思って、とっさの判断」でバントしたことを明らかにしており、「大石は同い年だったんですけど、あれだけは本当に悪いことをしたと思っています(笑)」と語っている[10]

王は現役を引退した後にオフシーズンに行われるOB戦に度々出場しているが、その際にも相手側は王シフトを敷いて対応していた。

なお、王は安打狙いで行けば四割も可能だったといわれることもあるが、落合博満は「この王シフトを逆に利用していけば四割も可能だった」と述べている[11]

その他の王シフト

白石の考案した王シフトは他のチームにも影響を与え、他のチームも同様のシフトを敷くようになっていった[2]。しかし王は動じることなく、1964年に放った日本記録となる55本塁打のうち50本がセンターから右方向の打球だった。王の長打力に磨きがかかり始めると、変わったシフトをとるチームも出てきた。

1968年6月26日中日ドラゴンズは内野手4人全員を一塁と二塁の間に配置、レフトを左中間、センターを右中間、ライトを一塁ライン際に守らせた。中心線から左側には外野手が1人いるだけというシフトだった。

また、1972年の日本シリーズ第1戦(10月21日)、阪急ブレーブスは二塁手を一二塁間に、三塁手を遊撃手の位置に配置し、中堅手の福本豊を右中間に、そして遊撃手の大橋穣をセンターに守らせる「外野4人シフト」を敷いた。この試合の王の第2打席は「遊飛(ショートフライ)」と記録されているが、これはバックスクリーン手前まで飛んだ打球を大橋が捕球したものである。世界中の野球史上最長のショートフライが誕生したのも、知恵者・白石の副産物といえる[2]

台湾屈指の強打者で、同じ左打の王柏融も酷似したシフトを敷かれることがある[12]

脚注

  1. ^ 『広島東洋カープ60年史 HISTORY 1950-2009 躍動!赤ヘル軍団』ベースボール・マガジン社〈B.B.MOOK スポーツシリーズ〉、2009年、41頁。ISBN (9784583616001)。 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o #天敵対決、74頁「第三章 巧みのワザで奇襲攻撃 怪物ごろしの達人たち 野球界の絶対王者 王貞治に挑んだ男たち」
  3. ^ a b c d レジェンドが語るプロ野球史 【ありがとう八十年(10)】王貞治、流し打ちせず真っ向勝負
  4. ^ a b c 【プロ野球】ささやき、背面投法、目くらまし……。昭和プロ野球、驚きの“王貞治”対策
  5. ^ . ZAKZAK (夕刊フジ). (2012年3月18日). オリジナルの2013年5月14日時点におけるアーカイブ。. 2017年4月7日閲覧。 
  6. ^ 伝説-スポーツ王国日本 歴史を作った者たち- 【王貞治 すべてがアン・ビリーバブル(6)】- nikkansports.com
  7. ^ a b DeNA筒香シフトに見る”和製バース”への道【二宮清純コラム ... - MyJCOM】
  8. ^ 第341回 策士ブラウンの真骨頂 » SPORTS COMMUNICATIONS
  9. ^ a b 朝日新聞 1964年5月6日朝刊
  10. ^ 王貞治さんは「王シフト」をどう考えていたか。本人に聞いてみたら… - 現代ビジネス・2019年4月8日
  11. ^ “落合博満のホームラン論その1「全打席でバックスクリーンだけを狙っていた」”. Yahoo!ニュース (2020年6月1日). 2021年10月15日閲覧。
  12. ^ 中職》兄弟守備佈陣奏效 大王多支安打被沒收 自由體育 (中国語) (2017年5月26日) 2017年5月28日閲覧

参考文献

関連項目

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