『櫻の樹の下には』(さくらのきのしたには)は、梶井基次郎の短編小説(掌編小説)。散文詩と見なされることもある。満開の桜やかげろうの生の美のうちに屍体という醜や死を透視し、惨劇を想像するというデカダンスの心理が、話者の「俺」が聞き手の「お前」に語りかけるという物語的手法で描かれている[1][2]。近代文学に新たな桜観をもたらした作品でもあり、「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!」という衝撃的な冒頭文は有名である[3][4][注釈 1]。
発表経過
1928年(昭和3年)12月5日発行の季刊同人誌『詩と詩論』第2冊に掲載された[6][7][注釈 2]。その後、基次郎の死の前年の1931年(昭和6年)5月15日に武蔵野書院より刊行の作品集『檸檬』に収録された[7]。同書には他に17編の短編が収録されている[8]。
翻訳版は、ジョン・ベスター・Stephen Dodd訳によりアメリカ(英題:Beneath the Cherry Trees、またはUnder the Cherry Trees)、Christine Kodama訳によりフランス(仏題:Sous les cerisiers)で出版されている[9][10]。
あらすじ
灼熱した生殖の幻覚させる後光のような、人の心を撲たずにはおかない、不思議な生き生きとした美しい満開の桜の情景を前に、逆に不安と憂鬱に駆られた「俺」は、桜の花が美しいのは樹の下に屍体が埋まっていて、その腐乱した液を桜の根が吸っているからだと想像する。
そして薄羽かげろうの生と死を見て、剃刀の刃に象徴される惨劇への期待を深める。花の美しい生の真っ盛りに、死のイメージを重ね合わせることで初めて心の均衡を得、自分を不安がらせた神秘から自由になることが出来ると、「俺」は「お前」に語る。
削除された最終断章
『櫻の樹の下には』は初出時、4つの断章で構成された作品であったが、刊行本『檸檬』収録時に最終章(冒頭部近くにある〈剃刀の刃〉の話に対応している後半部分)は削られた。しかし、ここをなぜ、梶井が削除したかの理由は明らかではない[1][2][3]。〈剃刀の刃〉の話の削られた後半部分は以下の内容である。
作品背景
湯ヶ島滞在
梶井基次郎は転地療養のため1926年(昭和元年)の大晦日から伊豆湯ヶ島を訪れ、川端康成の紹介で1927年(昭和2年)元旦から「湯川屋」に長期滞在するようになった[1][11](詳細は(梶井基次郎#伊豆湯ヶ島へ――『青空』廃刊)を参照)。2月中旬頃、大仁にかかっていた動物園の動物が下田へ移動する際、貨物自動車に載せられない大きな象やラクダが街道上を歩いていった[12][13][14]。その時、地域の小学校も臨時休校になり、ふだん静かな山里は一大イベントで賑わった。子供や村人に混じって基次郎と川端夫妻もその珍しい行進見物を楽しんだ[13][14]。
一行が去った後も基次郎は、〈どこか あの日の巨大な足跡でも残つてゐないか〉と、伊豆の踊子に喩えたその〈可憐なものが歩いてゐる〉光景を心から〈想望〉し、その後も川端と2人で動物たちの話題に興じた[12][14]。春になると「湯川屋」の真向いからは、世古峡の断崖に生える染井吉野が見られ、4月には満開の美しい山桜を眺めた[15]。都会では見られない風景や植物や昆虫、動物の生態(河鹿の交尾、生け捕りにされた藪熊など)は、その後の基次郎の作品の題材になっていった[13][14][16]。4月に川端は横光利一の結婚披露宴出席を機に湯ヶ島を離れて東京に戻ったが、病状が一進一退の基次郎はその湯ヶ島の山里に長逗留することになった[13][14]。
基次郎は、渓を下りて狩野川の支流・猫越川の川岸で河鹿を観察したり、ウスバカゲロウを見たりと様々な自然風景を眺めて魅せられていた[16][18]。
6月頃には、川端の勧めで湯ヶ島にやって来た萩原朔太郎とも知り合いとなるが、萩原も湯ヶ島の桜に魅了され多くの作品を書いた[4]。この年の12月には、すでに『櫻の樹の下には』は創作・構想されていたとされる[2][19]。翌1928年(昭和3年)3月のノートには、『(冬の蠅)』の草稿、ボードレールの『巴里の憂鬱』の「エピローグ」の英訳の写しと共に、以下のような記述がある[2][20]。
櫻の樹の下には屍体が埋まつてゐる
私逹は溪に沿つた街道の午後を散歩してゐた。—梶井基次郎「日記 草稿――第十二帖」(昭和3年・昭和4年)[20]
帰京後
1928年(昭和3年)5月10日前後に「湯川屋」を引き払い、東京市麻布区飯倉片町32番地(現・港区麻布台3丁目4番21号)の下宿に戻った梶井基次郎は、留守中に部屋を貸していた北川冬彦と同宿の伊藤整(東京商科大学生)と初対面した[21][22][23]。
基次郎と親しくなった伊藤整は、まだ発表していない作品の内容を聞かされ、その素晴らしさに興奮した[21]。その基次郎の語りでは、人間をはじめ鹿・犬・馬などの死体が満開の桜の樹の下に埋まっていて、その死体の破れた腹からは腐った内臓が見え、犬のつぶれた目からは液汁がどろどろ流れ出し、人の足の切り口も詳らかに描写されていた[21][23][24]。
その物語のイメージは、湯ヶ島の「光線の強い風景」の中で着想されたものだと基次郎は語っていたという[3][21]。伊藤は、それを『マルドロールの歌』(ロートレアモン伯爵作)の一部にでもありそうな「人の眼を覆はせるやうな」が惨澹たる一節だったとしている[24]。
それは、桜の花の根や幹が透明になって、地面の下まで透いて見える、ということだ。桜の幹の中に在る数限りない細い管を、樹液が根の方から登って行くのが分る。そして桜の根元の地下には、色々な動物の死骸が埋まっている。それは鹿や犬や猫や猿や鼠や、色々な動物である。その動物の腐敗した身体の方に、桜の根が生きもののように伸びて行って、毛細管がその死骸にからまっている。そしてその腐った死骸から養分を吸いとっては上の幹から枝へ、枝から花へと送っているのだ。
「でなければ、あんなに桜の花が美しいわけはないんだ。それだから桜の花はあんなに美しいんだよ」と梶井が言った。私は聞いていて、彼の話に感嘆した。すばらしい話だ、と私は思った。梶井のその話を聞いていると、桜の花が私の見て来たのよりもずっと美しく思われ、それ自体が生命の爆発であるように思われて来るのであった。 — 伊藤整「若い詩人の肖像」[25]
しかし8月中旬から体調が悪化し、毎日のように血痰を吐いて呼吸困難で歩けなくなるほど結核の病状が進んできたため、その様子を心配する友人達の強い勧めで、基次郎は9月に大阪市住吉区阿倍野町99番地の実家に帰郷した(詳細は(梶井基次郎#帝大中退後――大阪帰郷へ)を参照)。そして北川冬彦から詩誌『詩と詩論』に寄稿依頼されていたことから、伊藤整に話していた物語の改稿に取りかかり、9月13日以降の10月頃から本稿執筆を始めた[3][注釈 3]。
伊藤整は、12月に発表された『櫻の樹の下には』を期待して読んだが、下宿で基次郎のその風貌と声で聞いた「滋味」のある内容よりも短く整理されていたために、小説としての魅力が薄れていると思った[3][21]。また、これが詩欄に掲載されたことに基次郎はやや不満げで、しきりに「小説であること」を伊藤に繰り返したという[21][注釈 4]。
作品評価・研究
『櫻の樹の下には』は、基次郎の作品の中では短い方であるが、〈桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!〉という冒頭の文章が印象に残る人気作で、他の作品と比べ、「かなり強いイメージの比喩」が多用されている[1]。鈴木貞美は、「美に醜を対置し、美のうちに“惨劇”を見出すデカダンスの美意識とその心理」が描かれている作品だと解説している[1]。
伊藤整は、実際に基次郎から直接語られた内容がとても衝撃的で素晴らしかったために、整理・短縮されていた発表作に失望感を抱き、「日光浴で真黒になつた目の細い顔から白い歯を出して語る梶井自身の姿の魅力がなくなつてゐた」と思ったが、それは『櫻の樹の下には』が「凡作だといふことでは決して無い」と解説し[21]、日本人の観念には珍しい印象でありながらも、「読了の感じは、やつぱりなにかしら、植物性のものであり、植物の美しさをこれほどみなぎらした作品を私は知らない」と高評している[24]。
柏倉康夫は、刊行本『檸檬』収録時に削除された〈剃刀の刃〉の話の最終章について、「これがないと作品の整合性は崩れるのだが、その一方で話がボードレールの散文詩のように作り物じみてしまうきらいがあって、梶井はあえて削除したのであろう」と考察している[3]。
(桐山金吾)は、話者の〈俺〉が、華麗に咲く満開の桜の花のあまりの美しさに、逆に〈不安〉と〈憂鬱〉に陥るが、〈桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる〉と信じることにより、〈不安がらせた神秘〉から解放され心が和むことから、「美に対する心象が明確なかたちを浮びあがらせてくる、生と死の平衡感覚を描いた作品である」と解説している[26]。
『櫻の樹の下には』の末尾の〈今こそ俺は、あの櫻の樹の下で酒宴をひらいてゐる村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めさうな気がする〉の一節について相馬庸郎は、「庶民」を「芸術的に発見」したのだと位置づけている[27]。これに対し、飛高隆夫は反論して、「生活者の論理に対抗し得る芸術の論理の獲得」を意味していると解説している[28]。
(吉川将弘)は『櫻の樹の下には』が「物語体小説」だということを重視しながら、〈俺〉が〈わかつた〉と感じたのは、「生命の誕生と終わりは表裏一体の物である」ということだとし、「誕生はどんなに美しくとも、裏側に壮絶な死を隠しており、死はどんなに汚らわしくとも、美しい誕生に繋がっているということである」と考察しながら[2]、話者の〈俺〉が〈お前〉に求めているのは、単なる理解だけでなく、自分と〈お前〉を重ね合わせようとしているとし、「その思想を、二人で共有しようという願い、共同体を作ろうという願いが、そこにはある」と論考している[2]。
参考
欧米には、「薔薇の下で」という、ラテン語でsub rosa、英語ではunder the roseという表現があり、「秘密に」という意味にもなる。梶井が参考にしたかどうかは不明である。
おもな収録本
アンソロジー収録
- 『詩と真実――ちくま哲学の森』(筑摩書房、1989年12月18日。ちくま文庫、2012年1月10日)
- 編集:鶴見俊輔、森毅、井上ひさし、安野光雅、池内紀。解説:池内紀「画家と悪魔:解説にかえて」
- 収録作品:(ジレージウス)「箴言」(大山定一訳)、アラン「芸術に関する101章より」(斎藤正二訳)、ジャコメッティ「昨日、動く砂は」(矢内原伊作訳)、小出楢重「下手もの漫談」、遠山啓「詩人失格」、寺田寅彦「自画像」、落合太郎「モンテーニュ」、カフカ「断食芸人」(池内紀訳)、尾崎士郎「酔中一家言」、野上弥生子「桜間弓川さんのこと」、武智鉄二「間」、円地文子「艶、深、偉」、花田清輝「芝居絵」、坂口安吾「Farceに就て」、夏目漱石「模倣と独立」、中野重治「素樸ということ」、竹内好「中国文学と日本文学」、梶井基次郎「桜の樹の下には」、田中美知太郎「美について」、柳宗悦「美の法門」、岡倉天心「茶室」(桜庭信之訳)、正岡子規「歌よみに与うる書」、萩原朔太郎「蕪村俳句のポエジイに就いて」、滝口修造「曖昧な諺」、西脇順三郎「オーベルジンの偶像」、深瀬基寛「悦しき知識」
- 『櫻憑き――異形コレクション綺賓館3』(光文社カッパ・ノベルス、2001年4月25日)
- 『林修の「今読みたい」日本文学講座』(宝島社、2013年10月。宝島SUGOI文庫、2015年7月4日)
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e 「湯ヶ島の日々」(アルバム梶井 1985, pp. 65–83)
- ^ a b c d e f 吉川 1995
- ^ a b c d e f g h 「第四部 第二章 帰阪」(柏倉 2010, pp. 367–376)
- ^ a b 市川 2005
- ^ 応傑 2006
- ^ a b 「第十二章 小さき町にて――王子町四十四番地」(大谷 2002, pp. 259–282)
- ^ a b 鈴木貞美「梶井基次郎年譜」(別巻 2000, pp. 454–503)
- ^ 藤本寿彦「書誌」(別巻 2000, pp. 516–552)
- ^ ウィリアム・J・タイラー編「外国語翻訳及び研究」(別巻 2000, pp. 640–642)
- ^ Dodd 2014
- ^ 「第八章 冬至の落日――飯倉片町にて」(大谷 2002, pp. 162–195)
- ^ a b 「淀野隆三宛て」(昭和2年3月7日付)。新3巻 2000, pp. 197–199に所収
- ^ a b c d 「第九章 白日の闇――湯ヶ島その一」(大谷 2002, pp. 196–215)
- ^ a b c d e 「第三部 第五章 三好との友情」(柏倉 2010, pp. 280–289)
- ^ 「淀野隆三宛て」(昭和2年4月10日付)。新3巻 2000, pp. 207–211に所収
- ^ a b 「第三部 第六章 素材」(柏倉 2010, pp. 290–299)
- ^ 「川端康成宛て」(昭和2年4月30日付)。新3巻 2000, pp. 217–219に所収
- ^ a b 「淀野隆三宛て」(昭和2年5月6日付)。新3巻 2000, pp. 221–222に所収
- ^ 「淀野隆三宛て」(昭和6年4月6日、12日付)。新3巻 2000, pp. 403–406に所収
- ^ a b 「日記 草稿――第十二帖」(昭和3年・昭和4年)。旧2巻 1966, pp. 424–444に所収
- ^ a b c d e f g h i 伊藤整「小説作法(第一話)」(月刊文章 1939年3月号)。別巻 2000, pp. 113–117に所収
- ^ 伊藤整「文学的青春傳(抄)」(群像 1951年3月号)。別巻 2000, pp. 207–209に所収
- ^ a b 「第十一章 悲しき突撃――再び東京へ」(大谷 2002, pp. 243–258)
- ^ a b c 伊藤整「櫻の樹の下には」(作品 1932年6月・追悼特集補遺号)。別巻 2000, pp. 316–318に所収
- ^ 伊藤整『若い詩人の肖像』(新潮社、1958年12月)。市川 2005, p. 89
- ^ (桐山金吾)「梶井基次郎『桜の樹の下には』の成立とボードレール的世界」(國學院雑誌 1986年12月)。吉川 1995, p. 29
- ^ 相馬庸郎「梶井基次郎・序説」(『橋本佳先生還暦記念文集』 1964年5月)。吉川 1995, p. 29
- ^ 飛高隆夫「梶井基次郎ノート―湯ヶ島時代の文学」(大妻国文 1971年3月)。吉川 1995, p. 29
参考文献
- 『梶井基次郎全集第2巻 遺稿・批評感想・日記草稿』筑摩書房、1966年5月。ISBN (978-4-480-70402-3)。
- 『梶井基次郎全集第3巻 書簡・年譜・書誌』筑摩書房、1966年6月。ISBN (978-4-480-70403-0)。
- 『梶井基次郎全集第3巻 書簡』筑摩書房、2000年1月。ISBN (978-4-480-70413-9)。
- 『梶井基次郎全集別巻 回想の梶井基次郎』筑摩書房、2000年9月。ISBN (978-4-480-70414-6)。
- 梶井基次郎『檸檬・冬の日 他九篇』岩波文庫、1954年4月。ISBN (978-4-00-310871-0)。 改版は1985年。
- 梶井基次郎『檸檬』(改)新潮文庫、2003年10月。ISBN (978-4-10-109601-8)。 初版は1967年12月。
- 梶井基次郎『梶井基次郎全集 全1巻』ちくま文庫、1986年8月。ISBN (978-4-480-02072-7)。
- (市川紘美)「憂鬱なる桜:『櫻の樹の下には』における桜像」『日本文學』第101号、東京女子大学、83-96頁、2005年3月15日。 NAID 110007184630。
- 大谷晃一『評伝 梶井基次郎』(完本)沖積舎、2002年11月。ISBN (978-4-8060-4681-3)。 初刊(河出書房新社)は1978年3月 NCID BN00241217。新装版は 1984年1月 NCID BN05506997。再・新装版は1989年4月 NCID BN03485353
- 柏倉康夫『評伝 梶井基次郎――視ること、それはもうなにかなのだ』左右社、2010年8月。ISBN (978-4-903500-30-0)。
- 鈴木貞美 編『新潮日本文学アルバム27 梶井基次郎』新潮社、1985年7月。ISBN (978-4-10-620627-6)。
- (吉川将弘)「『桜の樹の下には』論―物語体小説という試み―」『近代文学試論』第33号、広島大学近代文学研究会、25-36頁、1995年12月。 NAID 120000883032。
- (応傑)「「美しい女」と「満開の桜の森」の真相 : 「桜の森の満開の下」をめぐって」『朝日大学経営論集』第21号、朝日大学、9-17頁、2006年9月。 NAID 110006556342。
- Stephen Dodd (2014-02), The Youth of Things: Life and Death in the Age of Kajii Motojiro, University of Hawaii Pres, ISBN (978-0824838409)