四代目 橘家 圓蔵(たちばなや えんぞう、1864年 - 1922年2月8日)は、明治・大正期に活躍した落語家。本名∶松本 栄吉。
概要
北品川に住んでいたため、「品川の圓蔵」、「品川の師匠」と呼ばれた。
立て板に水の能弁で、作家芥川龍之介は「この噺家は身体全体が舌だ。」と感嘆した。「嘘つき弥次郎」「首提灯」「蔵前駕籠」「お血脈」「反魂香」「釜どろ」「百川」「松山鏡」「廓の穴」「芝居の穴」「三人旅」などが得意ネタ。
地噺などを得意とした。弟子六代目三遊亭圓生の話では、「山門」で石川五右衛門が欄干に足をかけて久吉を睨みつけるのを「その顔色ってのは、噺家が永代橋でシャッポを飛ばしたようなもんで。」と警句を飛ばし、その上手さとおかしさに客席を沸かせたという。
人柄
「うちの師匠ってのは、きちんとした人でしたね。羽織なんかもなまじっかな前座にはたたませないんです。たたんでも気に入らない。たたむとこから何からじっと見てて、ちょっとでも曲がってたりなんかすると、ぱあっとひろげちゃって自分でたたみ直す。だから非常に気難しい人のように思われてたが、そういう訳じゃなくて、几帳面なんですね。」
「・・・決して、おさまったり容体ぶるってことがない、ざっくばらんな人なんです。夜なんぞは弟子たちとみんな一緒に話をしたりなんかするのが好きで、人の話を聞いてにこにこ笑いながら、時々警句をとばす。それがまたうまいんです。」
「・・・随分毒舌を吐き、ひとの悪口を言いましたが、それでいて相手を決しておこらせなかった。そこにやはり話術の妙というものがあったからだろうと思います。」
(何れも6代目圓生談)
略歴
父は浅草向柳原で古着商を営んでいた。妻は元吉原の芸者で「富桔梗(ふうききょう)」という芸者屋を営んでいた。始め人形芝居の一座で人形遣いをしていたが、足の役ばかりなので見切りをつけて落語家になる。(6代目三遊亭圓生談)
- 1879年 - 父が死別(15歳)
- 1883年 - 母が死別(19歳)、亡き父の知人の人形芝居の、西川力蔵の一座で各地を修行するも大御難で嫌になり帰京。
- 1887年6月 - 4代目三遊亭圓生に入門し、(三遊亭?)さん生を名乗る。
- 1887年7月 - 八丁堀の寄席「(朝田亭)」で初高座。
- 1890年9月 - 二つ目昇進し、4代目橘家圓蔵に改名。このころ師匠圓生の薫陶を受け鍛えられた。
「・・・四代目圓生はわがままな人で、高座にあがってしゃべってるうちに『ちょいとすみません、お客様、下着を着て上がりましたが、どうも暑くてしょうがないから、今ぬいでまいりますから』って、すウっとおりちゃう。そして『おい、お前、ちょいと演ってな。』ってうちの師匠があげられるんですって。・・・とにかくその時分に、うまいうまいと評判の圓生がおりちゃって、弟子があがって演じるんですから大変なことです。・・・つまりそれで鍛えられたんでしょうね。情けですよ、こわい情けですけどね。・・・『あの時は実に苦しかったけど、今思えばやっぱりそれが師匠の情けだ』ってよく言ってました。」 — 6代目圓生談
「会員の中で圓蔵が一番先に演目で困るだろう」って心配したんです。ところが、いざふたをあけて回を重ねて行くと、一番ネタがあったんでみんなびっくりしたってえます。」 — 6代目圓生談
圓生襲名
- 師匠圓生は、生前「圓生は品川(圓蔵)に継がせる。」と語っていたが、圓蔵は結局圓生を襲名せぬまま亡くなってしまった。
一門弟子
門下(弟子)の育成には力を入れ三代目柳家小さんと並ぶほどだった。
- 五代目三遊亭圓生
- 六代目三遊亭圓生
- 五代目三遊亭圓窓 - 八代目桂文治門下に移籍
- 橘家圓三
- 三遊亭圓満 - 二代目三遊亭金馬門下から移籍
- 橘家圓満
- 三遊亭圓坊
- 橘家圓十郎
- 初代橘家蔵之助
- 橘家扇蔵
- 橘家扇三
- 初代橘家小圓蔵 - 二代目談洲楼燕枝門下に移籍
- 三遊亭圓玉 - (木村武之祐)門下から移籍
- 橘家若蔵
- 橘家米蔵 - (初代三遊亭小圓遊)門下から移籍
- 橘家花圓蔵 - 八代目桂文治門下に移籍
- 高砂家鶴亀 - 四代目春風亭柳枝に移籍
- 橘家咲蔵 - 七代目翁家さん馬門下に移籍
- (橘家圓弥) - (五代目橘家圓太郎)門下に移籍
- 橘家吉蔵 - 移籍
- (橘家圓六)
- 橘家花圓蔵 - 五代目三遊亭圓生門下に移籍
- 橘家稲蔵 - 四代目古今亭志ん生門下に移籍
- (日本太郎)
- (三代目三遊亭小圓朝) - (二代目三遊亭小圓朝)門下から移籍
- (三代目三遊亭圓遊)
- 橘家二三蔵 - 三代目柳家小さん門下へ移籍
色物
廃業
- 橘家鶴蔵