この記事にはや(外部リンク)の一覧が含まれていますが、(脚注)による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。 |
桃井氏(もものいし/もものいうじ)は、日本の氏族。清和源氏足利氏の支族で、足利義兼の子である兵部少輔桃井義助が嘉元元年(1225年)に上野国群馬郡桃井郷(現在の群馬県北群馬郡榛東村、旧名・桃井村)の荘司(地頭補任は不詳)となり、苗字の地とし桃井氏を称した[1][2][3]。
二つの桃井氏
平安後期、上野国群馬郡桃井郷を在地領主化した物射系桃井氏(物部氏)が支配したが、鎌倉初期、和田合戦、承久の乱で没落し、足利系の桃井氏が中期以降、桃井郷を中心に勢力を伸ばした。この桃井氏は、当村東部の山子田御掘の居館に至って地内を流れる(午王頭川)水系を掌握する一方、山野と耕地との境界に長大なシシドテを築いて勧農に努めた。
経歴
祖は足利氏 3代当主・足利義氏の孫である桃井義胤で、上野国群馬郡桃井荘(現・群馬県榛東村桃井)を領して「桃井氏」を称したのが始まり。
概要
桃井氏は足利庶家であり[4]、鎌倉時代には御家人として桃井庄に住し、義助の曾孫の代に至り、三郎(桃井胤氏)系(子孫は桃井尚義)、小二郎(桃井頼直)系(子孫は桃井直常、桃井直信兄弟)の2系統に分かれた[1][2]。
鎌倉時代末期
鎌倉時代末の動乱では六波羅探題攻めの足利尊氏軍に桃井直常・桃井直信兄弟、鎌倉攻めの新田義貞軍に桃井尚義が属して行動をともにしたのが、一族では最も著名である。そうして鎌倉幕府滅亡に貢献した。
南北朝動乱期
南北朝期での一族は南朝方・北朝方に分かれて戦った。 1333年(正慶2年)には、桃井一族は新田義貞の鎌倉攻略戦に従軍したが、建武の新政崩壊後、 武家方と宮方双方に分裂して南北朝動乱期を迎えた。 特に武家方の桃井直常、直信兄弟は驍将として名を馳せた。 越中国守護ともなった直常だったが、観応の擾乱時から足利直義・直冬勢の有力武将として常に尊氏に敵対していた為、直義敗北後は北朝・幕府に抵抗を続けつつも次第に衰退していった[1]。
一族
室町時代にかけて諸国に分かれた桃井氏があった。本拠地である上野国や所領のあった越前国、武蔵国、越中国、信濃国、越後国、美濃国、隠岐国、紀伊国などに広がった。 福井県の(幸若氏)や橋本氏、蜂屋氏。群馬県榛東村の源姓湯浅氏、前橋市の阿久沢氏、(奥沢氏)、埼玉県戸田市の金子氏や(篠氏)、幸手市の(巻島氏)という。 能登国守護畠山氏家臣の温井氏、なお能登国の温井氏は、桃井直信 の嫡男(景信)が(藤原姓)(温井景直)に迎えられ桃井氏から姓を改めたもの、という。
著名人
室町期、幸若舞の創始した(幸若氏)の祖となった桃井直詮は直常の孫に当たるという。幕末に活躍した橋本左内を輩出した橋本氏は桃井直常の末裔と称した。
桃井直和の孫にあたる日隆は戦国時代の織田信長が自刃した本能寺の変で有名な本能寺を開山している。
戦国時代の武将で越後上杉家臣の桃井義孝も直詮の末裔と見られる。
思想家の桃井可堂(はじめは福本姓)、剣術家の桃井春蔵や秋山多吉郎がいる。また、富山大学教授で倫理学が専門の杉本新平も桃井直常の末裔とされる[5]。
系図
脚注
- ^ a b c kotobank-桃井氏, 世界大百科事典.
- ^ a b kotobank-桃井氏, 日本大百科全書.
- ^ kotobank-桃井氏, ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典.
- ^ 藪塚 1976, p. [].
- ^ 富山新聞社 編『越中百家〈上巻〉』北国出版社、1970年、299,300頁。(ASIN) B000J9DA86。
参考文献
- “桃井氏”. コトバンク. 2018年10月29日閲覧。
- 富山新聞社『越中百家〈上巻〉』(北国出版社、1973年) ASIN: B000J9DA86
- 富山南高等学校地歴部『南北朝の動乱と桃井直常 : 直常の越中守護赴任六百五十年を記念して』富山県立富山南高等学校地歴部、1993年10月。
- 藪塚, 喜声造『新田一門史』 続、藪塚喜声造、1976年。 NCID BB00986234。