板倉 勝殷(いたくら かつまさ/かつたか)は、江戸時代後期の大名。上野国安中藩最後の藩主。官位は従五位下・主計頭。重形系板倉家8代。
生涯
文政3年(1820年)1月12日、先々代藩主・板倉勝尚の三男として誕生した。安政4年(1857年)閏5月11日、兄で先代藩主の勝明が死去したため、家督を継いだ。同年6月25日、13代将軍・徳川家定に拝謁する。同年12月16日、従五位下・主計頭に叙任する。安政6年(1859年)2月、(大坂加番)を命じられる。幕末期には和宮降嫁のために中山道の守備を務めた。ちなみに、「偽官軍事件」として有名な赤報隊事件はこの安中で起こっている。
慶応4年(1868年)1月13日、徳川慶喜から上野碓氷郡の警備の強化を命じられる。同年3月、老臣を上洛させて、新政府に恭順の姿勢を示す。同年4月19日、新政府軍に弾薬を献上する。明治2年(1869年)6月20日、版籍奉還で安中藩知事に任じられる。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官される。8月に東京へ移った。
晩年から死後の家督相続
明治5年3月5日(1872年4月12日)、勝殷は隠居して婿養子の(勝任)に家督を譲った[1]。ところが、勝任は翌明治6年(1873年)8月19日に隠居し[1]、家督は勝殷が再襲するも勝殷は同月31日に死去した[1][2][3]。享年54。
勝殷の死後、同年10月24日に四女の(種子)が板倉家の女戸主となり[1]、明治10年(1877年)10月13日に種子の夫の久知が家督を継いだが[1]、明治13年(1880年)1月17日に久知が隠居し[1](直後に離縁して実家の中川家に復籍)、再び種子が女戸主となった[1][3]。明治16年(1883年)12月10日に種子は隠居して養女の(花子)(実姉、勝殷の三女、勝任の元妻)に家督を譲った[1]。
明治19年(1886年)、花子は2人目の夫に板倉勝観(戸田央、元川越藩主松平康載)を迎え、勝観は同年4月6日に家督を継ぎ[1][4]、同月24日に子爵を叙爵した[1][5]。
系譜
子女は2男5女
父母
正室
- 鈴木勘次郎の娘
子女
養子
系図
数字は当主の継承順。
脚注
参考文献
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。