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本山雅志

本山 雅志(もとやま まさし、1979年6月20日 - )は、福岡県北九州市若松区出身の元プロサッカー選手。 現役時代のポジションはミッドフィールダーフォワード[1]。元日本代表

本山 雅志
名前
愛称 モト、マサシ
カタカナ モトヤマ マサシ
ラテン文字 MOTOYAMA Masashi
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1979-06-20) 1979年6月20日(43歳)
出身地 福岡県北九州市若松区
身長 175cm
体重 65kg
選手情報
ポジション MF / FW
利き足 右足
ユース
1992-1994 北九州市立二島中学校
1995-1997 東福岡高等学校
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1998-2015 鹿島アントラーズ 365 (38)
2016-2019 ギラヴァンツ北九州 50 (0)
2021-2022 クランタン・ユナイテッドFC
代表歴2
1998-1999  日本 U-20
2000  日本 U-23
2000-2006 日本 28 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。2019年1月18日現在。
2. 2006年2月18日現在。
(■テンプレート)((■ノート) ■解説■サッカー選手pj

来歴

1979年6月20日、北九州市若松区で鮮魚店を営む一家に4人兄弟の末子として生まれる。3つ上の兄の影響で幼稚園の頃からサッカーを始め、地元の二島小学校に入学後1年生からサッカー少年団に所属、本格的に打ち込む。5年生の頃には、指導者から「お前は自由にやっていい。パスはやんないでどんどんドリブルで好きなように仕掛けろ」と言われていた[2][3]二島中学校時代には、1年後輩で後に高校の後輩にもなる宮原裕司、同じく2年後輩の山形恭平らと一緒だったが、全国大会には出場出来なかった[3]。中学3年生の時に、福岡県の強豪校、東福岡高校志波芳則監督にスカウトされ同校に進学[4]。高校では、先輩だった生津将司から監督への提案により1年生からボランチでトップチームのレギュラーになり[5]同年の高校選手権でもレギュラーとして出場、1回戦桐光学園戦では1学年上の中村俊輔をマンマークし勝利に貢献するなど、同年の準決勝進出の一翼を担う[6] 。本山の在学中に週2回ほど同校を指導していた元八幡製鉄サッカー部監督の寺西忠成からも常に傍に置かれ薫陶を受けるが、2年時には椎間板ヘルニアを発症、当時は開腹手術しか完治する方法がなかったため、本人曰く「だましだましのまま」出場試合数を限定しながら1年を過ごし[7]、チームもインターハイ高校選手権ともに県予選で敗れる。しかし3年時の1997年には、攻撃的MFとして、インターハイ、全日本ユース選手権高校選手権で優勝し、高校サッカー史上初の3冠を達成、併せて公式戦で年間49勝2分無敗という驚異的な記録も達成する[8]。特に高校選手権決勝は、後に鹿島のチームメイトになる中田浩二がいる帝京高校との対戦であったが、史上初のインターハイ決勝との同一カード、かつインターハイ優勝校が高校選手権では優勝出来ないというジンクスが27年間続いており、それを打ち破っての快挙であった[9]

1998年に鹿島に入団(同期は小笠原満男、中田浩二、曽ヶ端準山口武士中村祥朗)。その年の天皇杯で4試合に出場し、3得点を挙げた。同年のAFCユース選手権ではチームの準優勝に貢献するとともに、自身も高原と並び大会得点王を獲得した。続く1999年には、ナイジェリアで開催されたU-20世界選手権(ワールドユース)の日本代表の一員として準優勝に貢献し、小野伸二と共にベストイレブンに選ばれた。 また、この年から鹿島でもリーグ戦にコンスタントに出場するようになり、翌2000年にはシドニーオリンピックに出場するとともに、A代表に選出され、6月18日ボリビア戦で代表デビューを果たした。さらには2000年、2001年の鹿島のリーグ連覇にスーパーサブとして貢献した[2]

2002年からは、前年限りで退団したビスマルクの背番号10を継承し、名実ともに鹿島の中心選手となった。しかし代表では主戦場としていた左サイドはチーム最大の人材過多のポジションであり、小野、中村俊、三都主、服部、三浦淳らが候補としてひしめいていた。特にスーパーサブのドリブラーとしての役割まで重なり2001年になって帰化した三都主が大ブレイク中であった事もあり、日本と韓国で開催された2002 FIFAワールドカップの代表には選出されなかった。

ジーコが代表を率いるようになった2003年からは代表に招集される機会が多くなり、FWもしくはトップ下としてAFCアジアカップ2004などに参加したものの、ある程度の出場機会が与えられたにも関わらず最後まで無得点だった事でアピールできず、ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップの代表からは外れた。

2007年には6月16日サンフレッチェ広島戦でリーグ戦通算200試合出場を達成し、同試合で鹿島ホーム通算500得点目の記念ゴールを決めた。またプロ10年目にしてはじめてリーグ戦全試合出場を果たし、6年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献した。

2008年から移籍した柳沢敦から鹿島の選手会長を引き継ぐ。シーズン中盤の6月に先天性水腎症を患っていることが判明したが、リーグ戦終了までごく近い関係者にしかその事実を明かさず[10]、国際試合のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)を含めてほぼフルに出場、リーグ連覇を果たした。12月25日水腎症の手術を受けた。

2014年7月27日のJ1第17節・浦和戦で、クラブ最長の17シーズン目で通算500試合を達成した。

2015年シーズンでは僅か6試合計139分間の出場にとどまったため、「まだピッチに立ち続けたい。プロ選手として、あるべき姿を追い求めたい」との願いから、11月26日、18シーズン在籍した鹿島を退団することが発表され[11][12]12月26日ギラヴァンツ北九州に加入した[1]

2016年はJ2リーグ戦36試合に出場、うち22試合で先発出場し、4アシストを記録したものの得点はなく、チームはJ2最下位となり翌年のJ3降格となり、リーグ最終節終了翌日の11月21日には右ひざ前十字靭帯損傷と診断され、手術をすると発表された[13]。その後リハビリテーションを続け、練習には復帰していたが、2017年8月7日、練習中に右膝に違和感を感じ、翌日半月板損傷と診断され、東京都内で手術を受ける[14]。結果、合計11か月ほど戦列を離脱。2017年10月1日、ホームのJ3リーグ対SC相模原で途中出場ながら復帰を果たした。翌2018年はチーム開幕戦となる第2節で先発、第4節ではフル出場したが、先発出場は第8節を最後になく、第23節の後半交代出場が同シーズン最後の公式戦出場となった。2019年シーズン、北九州はJ3リーグ優勝を果たすが、本山はGK以外のフィールドプレーヤーとしては唯一公式戦出場なしに終わり、同シーズン終了後の12月24日、契約満了が発表された[15]

2020年は、家業の鮮魚店を手伝いつつ現役復帰を目指していた[16]

2021年からマレーシア・プレミアリーグクランタン・ユナイテッドFCに所属。本山にとって初の国外リーグ参加となる[17]

2023年4月1日、カシマスタジアムで引退を表明した[18]

評価

オズワルド・オリヴェイラは「私が鹿島からのオファーをいただいた時に、私の弟が昔フィジカルコーチをしていた。『アントラーズにはすごい10番がいるぞ、日本一のうまい選手がいるぞ』と彼から聞いて楽しみにして日本に来た。彼に接したり、プレーしている中で確かにそうだなと思った。技術もあり、ドリブルもあり、インテリジェンスという部分もあり、それをどうやって生かしていくのかというところだった。不思議なことに、日本のハーフはサイドでしかプレーしない。それだと武器をもっていても生きない。本山選手の技術や能力を考えれば、真ん中でプレーしてもおもしろいかなと。一番相手が使われたくない場所、バイタルエリアで落ち着いてプレーできるという意味で日本で一番ではないかと思う。長年サッカーの世界で生活しているが、戦術的な理解度とゲームを読む力は5本の指に入るくらいの能力を、彼は持っていると思う。唯一残念な部分は、怪我や病気などフィジカル的な問題で90分間使えないこと」と評している[19]

エピソード

  • 豊国学園高等学校に進学していた兄の勧めで、東福岡高校サッカー部に興味を持ち、監督の志波から直接誘われたことで本人は同校に進学する気になっていたが、志波が必要な手続を失念していたため、なかなか公的に声が掛からず、「ダメならほかの学校に行くか、勉強でヒガシに入学してサッカー部に入るか、どうしようか考えはじめていた」ところ、偶然高校選手権の県予選で東福岡高校と対戦した兄が、試合終了後に志波に駆け寄り「弟をどうぞよろしくお願いします」とだけ伝え、立ち去ったことで、志波は再度本山を訪問、手続きがなされたという[4]
  • 2008シーズンは水腎症発覚後、症状の悪化を防ぐために水分の摂取量に細心の注意を払い、引退を覚悟してピッチに立ち続けた。優勝決定直後の12月7日に公表された。12月25日手術[10]
  • 2009年、シーズンのリーグ戦5連敗中には決起集会を呼びかけた[20]
  • サクソフォン奏者の平原まこととは親戚である[21]

所属クラブ

ユース経歴

プロ経歴

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 (リーグ杯)(オープン杯) 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1998 鹿島 24 J 1 0 0 0 4 3 5 3
1999 J1 18 0 2 0 0 0 20 0
2000 16 18 6 3 1 5 0 26 7
2001 21 3 3 0 3 2 27 5
2002 10 24 3 7 1 4 2 35 6
2003 20 4 4 1 4 1 28 6
2004 24 3 0 0 2 0 26 3
2005 32 5 0 0 3 1 35 6
2006 27 2 7 0 4 1 38 3
2007 34 2 9 4 5 1 48 7
2008 32 3 2 0 1 0 35 3
2009 27 2 2 0 3 0 32 2
2010 15 2 2 0 5 1 22 3
2011 13 0 1 0 3 0 17 0
2012 17 3 6 0 2 0 25 3
2013 24 0 7 1 3 0 34 1
2014 12 0 2 1 0 0 14 1
2015 6 0 0 0 2 0 8 0
2016 北九州 43 J2 36 0 - 2 0 38 0
2017 J3 5 0 - 0 0 5 0
2018 9 0 - - 9 0
2019 0 0 - 0 0 0 0
マレーシア リーグ戦 マレーシア杯FA杯 期間通算
2021 (クランタンU) 10 マレーシア・プレミア
通算 日本 J1 365 38 57 9 53 12 475 59
日本 J2 36 0 - 2 0 38 0
日本 J3 14 0 - 0 0 14 0
マレーシア マレーシア・プレミア -
総通算 415 38 57 9 55 12 527 59

その他の公式戦

  • 2000年
  • 2001年
  • 2002年
    • スーパーカップ 1試合1得点
  • 2008年
    • スーパーカップ 1試合1得点
  • 2009年
    • スーパーカップ 1試合0得点
  • 2011年
    • スーパーカップ 1試合0得点
国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
AFCACL
2002-03 鹿島 10 1 0
2008 7 3
2009 6 1
2010 0 0
2011 3 0
2015 4 0
通算 AFC 21 4

その他の国際公式戦

出場歴

タイトル

クラブ

鹿島アントラーズ

代表

個人

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 28試合 0得点(2000年 - 2006年)


日本代表国際Aマッチ
出場得点
2000 3 0
2001 0 0
2002 0 0
2003 3 0
2004 12 0
2005 8 0
2006 2 0
通算 28 0

出場

No. 開催年月日 開催都市 スタジアム 対戦国 結果 監督 大会
1. 2000年6月18日  横浜 横浜国際総合競技場   ボリビア ○2-0 トルシエ キリンカップサッカー2000
2. 2000年8月16日  広島 広島ビッグアーチ   アラブ首長国連邦 ○3-1 キリンチャレンジ2000
3. 2000年12月20日  東京 国立競技場   韓国 △1-1 キリンビバレッジ2000
4. 2003年9月10日  新潟 新潟スタジアム ビッグスワン   セネガル ●0-1 ジーコ キリンチャレンジカップ2003
5. 2003年12月4日  東京 国立競技場   中国 ○2-0 東アジアサッカー選手権2003
6. 2003年12月10日  横浜 横浜国際総合競技場   韓国 △0-0
7. 2004年2月7日  鹿嶋 茨城県立カシマサッカースタジアム   マレーシア ○4-0 キリンチャレンジカップ2004
8. 2004年4月25日  ザラエジェルツェグ (ZTEオレーノ)   ハンガリー ●2-3 国際親善試合
9. 2004年4月28日  プラハ トヨタ・アレーナ   チェコ ○1-0
10. 2004年5月30日  マンチェスター シティ・オブ・マンチェスター・スタジアム   アイスランド ○3-2
11. 2004年7月9日  広島 広島ビッグアーチ   スロバキア ○3-1 キリンカップサッカー2004
12. 2004年7月20日  重慶 重慶オリンピックスポーツセンター   オマーン ○1-0 AFCアジアカップ2004
13. 2004年7月24日   タイ ○4-1
14. 2004年7月28日   イラン △0-0
15. 2004年7月31日   ヨルダン ○1-1(PK4-3)
16. 2004年8月18日  静岡 静岡スタジアム エコパ,   アルゼンチン ●1-2 キリンチャレンジカップ2004
17. 2004年9月8日  コルカタ ソルトレイク・スタジアム   インド ○4-0 W杯 ドイツ大会 アジア地区1次予選
18. 2004年11月17日  さいたま 埼玉スタジアム2002   シンガポール ○1-0
19. 2005年1月29日  横浜 横浜国際総合競技場   カザフスタン ○4-0 キリンチャレンジカップ2005
20. 2005年2月2日  さいたま 埼玉スタジアム2002   シリア ○3-0
21. 2005年5月22日  新潟 新潟スタジアム   ペルー ●0-1 キリンカップサッカー2005
22. 2005年5月27日  東京 国立競技場   アラブ首長国連邦 ●0-1
23. 2005年7月31日  大田 大田ワールドカップ競技場   朝鮮民主主義人民共和国 ●0-1 東アジアサッカー選手権2005
24. 2005年8月3日   中国 △2-2
25. 2005年8月7日  大邱 大邱ワールドカップ競技場   韓国 ○1-0
26. 2005年10月8日  リガ スコント・スタディオン   ラトビア △2-2 国際親善試合
27. 2006年2月10日  サンフランシスコ SBCパーク   アメリカ合衆国 ●2-3
28. 2006年2月18日  静岡 静岡スタジアム エコパ   フィンランド ○2-0 キリンチャレンジカップ2006

出演

CM

  • 日清食品「焼豚屋」(2002年)
    • 『バス篇』 - 柳沢敦との共演
    • 『飛行機篇』 - 柳沢敦との共演

脚注

  1. ^ a b 本山 雅志 選手 鹿島アントラーズより完全移籍加入のお知らせ ギラヴァンツ北九州、2015年12月26日閲覧
  2. ^ a b WEBサッカーマガジン 2001年7月26日のインタビューより[]
  3. ^ a b “【黄金世代】第5回・本山雅志「その疾きこと、赤い彗星のごとし」(♯1)(3/4)”. サッカーダイジェストweb. 日本スポーツ企画出版社 (2017年11月22日). 2017年11月22日閲覧。
  4. ^ a b “【黄金世代】第5回・本山雅志「その疾きこと、赤い彗星のごとし」(♯1)(4/4)”. サッカーダイジェストweb. 日本スポーツ企画出版社 (2017年11月22日). 2017年11月22日閲覧。
  5. ^ “【黄金世代】第5回・本山雅志「真紅の閃光~49勝2分け、3冠の金字塔」(♯2)(1/5)”. サッカーダイジェストweb. 日本スポーツ企画出版社 (2017年11月27日). 2017年12月27日閲覧。
  6. ^ “【黄金世代】第5回・本山雅志「真紅の閃光~49勝2分け、3冠の金字塔」(♯2)(2/5)”. サッカーダイジェストweb. 日本スポーツ企画出版社 (2017年12月27日). 2017年11月27日閲覧。
  7. ^ “【黄金世代】第5回・本山雅志「真紅の閃光~49勝2分け、3冠の金字塔」(♯2)(3/5)”. サッカーダイジェストweb. 日本スポーツ企画出版社 (2017年11月27日). 2017年12月27日閲覧。
  8. ^ “【黄金世代】第5回・本山雅志「真紅の閃光~49勝2分け、3冠の金字塔」(♯2)(4/5)”. サッカーダイジェストweb. 日本スポーツ企画出版社 (2017年11月27日). 2017年12月27日閲覧。
  9. ^ “【黄金世代】第5回・本山雅志「真紅の閃光~49勝2分け、3冠の金字塔」(♯2)(5/5)”. サッカーダイジェストweb. 日本スポーツ企画出版社 (2017年11月27日). 2017年12月27日閲覧。
  10. ^ a b 鹿島本山、水腎症乗り越えV獲った/J1 日刊スポーツ 2008年12月7日
  11. ^ 本山選手の退団について 鹿島アントラーズ 2015年11月26日
  12. ^ “本山が鹿島退団 現役続行希望に複数クラブ興味”. nikkansports.com (日刊スポーツ新聞社). (2015年11月27日). http://www.nikkansports.com/m/soccer/news/1571753_m.html 2015年12月31日閲覧。 
  13. ^ “北九州の37歳MF本山雅志、右ひざ前十字じん帯損傷で手術へ”. サッカーキング. (2016年11月21日). http://www.soccer-king.jp/news/japan/jl/20161121/518481.html 2016年11月21日閲覧。 
  14. ^ 『本山雅志選手 診断結果についてのお知らせ』(プレスリリース)ギラヴァンツ北九州、2017年8月17日https://www.giravanz.jp/news/p32080.html2017年12月13日閲覧 
  15. ^ 『本山 雅志 選手 契約満了のお知らせ』(プレスリリース)ギラヴァンツ北九州https://www.giravanz.jp/news/p34314.html2019年12月25日閲覧 
  16. ^ “魚屋にいる元日本代表 市場の後に公園で練習、現役復帰目指す常勝鹿島の10番本山”. 西日本スポーツ. 2021年1月8日閲覧。
  17. ^ “元日本代表の本山がマレーシアのクラブと契約 海外初挑戦の41歳「熱心に誘われて決めた」”. 西日本スポーツ. 2021年1月8日閲覧。
  18. ^ “サッカー元日本代表の本山雅志が引退 43歳、鹿島で黄金期”. 時事通信. 2023年4月1日閲覧。
  19. ^ 2011年1月1日J`sgoal http://www.jsgoal.jp/news/jsgoal/00112164.html
  20. ^ 2009年9月29日スポーツ報知6頁
  21. ^ https://ameblo.jp/hirahara-ayaka/entry-10822810971.html

関連項目

外部リンク

  • 本山雅志 - Olympedia (英語) 
  • - Sports-Reference.com (Olympics) のアーカイブ (英語) 
  • 本山雅志 - National-Football-Teams.com (英語) 
  • 本山雅志 - Soccerway.com (英語) 
  • 本山雅志 - WorldFootball.net (英語) 
  • 本山雅志 - Transfermarkt.comによる選手データ (英語) 
  • - FIFA主催大会成績 (英語) 
  • 本山雅志 - J.League Data Siteによる選手データ 
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