春風亭 一柳(しゅんぷうてい いちりゅう、1935年10月12日[1] - 1981年7月9日[2])は、東京都出身の落語家。本名∶長坂 静樹[3][1]。生前は落語協会所属。出囃子は『筑摩祭』[4]。1978年までは三遊亭 好生の芸名を名乗っていた[2]。
来歴・人物
入門まで
まだ幼い頃、婿養子だった父が離婚して家を出たため、母と祖母に育てられた[5]。東京都立西高校[6]入学に前後して母と祖母が病没し[5]、本人も病弱のため高校を休学して一人残された実家を間貸しして生活していた[5]。
休学中に寄席通いをするようになり[7]、6代目三遊亭圓生の熱心なファンとなった[8]。やがて圓生からも顔を覚えられ、圓生宅に招かれるほど親しくなり[9]、1956年に高校を中退して三遊亭好生として圓生に入門した[10]。
入門から真打昇進まで
入門してからしばらくは高校時代の体調不良を引きずっており、内弟子時代には圓生夫妻にかなり迷惑を掛けたという[11]。二つ目時代の1962年には年上の女性と同棲し入籍したが、ほどなくして不和となり、心中未遂騒動を起こした[12][13]。先に好生が睡眠薬自殺を図り、妻が後追いでガス吸引による自殺を図ったというもので、好生は助かったものの妻は死亡した[12]。その後、1969年に二度目の結婚をしている[14]。
入門後の圓生との師弟関係は円満ではなかった[15][16][17]。好生は芸風や背格好、所作に至るまで師匠の圓生と似ており[18][19][20][17]、「圓生の影法師」[注 1][22][16][23][24]と言われた。これは圓生に心酔して神のように崇め[19][17][25]、圓生の芸をひたすら模倣するようになってしまったこと[19][17][25]や、「悪い癖がつくといけないから」という理由で若い頃に他の師匠のところへ出稽古に行くのを圓生から禁じられていたこと[26]などが原因となっている。その芸は圓生に似てはいるものの、圓生のような茶目っ気や色気がなく[16][注 2]、地味で華がなかった[27]とされる。圓生からすると下手だと言われた若い頃の自分を思い出させるようで不愉快だったらしく[17]、好生は圓生から嫌われ、徹底的に冷遇されることとなった[17]。8代目春風亭柳枝一門から移籍してきた弟弟子6代目三遊亭圓窓・三遊亭圓彌に真打昇進で先を越され[28]、好生は内気な性格から思い悩むようになっていった[28]。
1973年(昭和48年)9月に落語協会による集団真打昇進(第一弾)の一人として真打に昇進した際、好生は当初「自分はまだ真打にふさわしくない」と拒否する構えを見せた[29][16]。しかし、これは師匠の圓生に対する当てつけ的な行動で[30][注 3]、圓生との関係は以後さらに悪化した[32][16]。真打昇進を機に改名[注 4]を希望したものの圓生からの許可は得られず[34]、昇進披露も圓生に立ち会ってもらえなかった[35]。好生は圓生の一門落語会からも除外されていた[16]。
圓生門下を離脱して改名
1978年(昭和53年)の落語協会分裂騒動で圓生が落語協会を脱退して新団体を設立した際、好生は師匠に従わずに落語協会に残留したことで破門を宣告され(5月17日[36])、圓生と犬猿の仲だった8代目林家正蔵(後の林家彦六)の客分格弟子となった[36]。なおこの時、同じく圓生から冷遇されていた兄弟子の三遊亭さん生(後の川柳川柳)も落語協会に残留している[37][38]。
その後圓生から芸名の返却を迫られ(5月28日[39])、春風亭一柳へと改名した[40]。亭号の「春風亭」は5代目春風亭柳昇から使用許可を貰い[40]、改名後には柳昇の師匠で春風亭派の総帥であった最晩年の6代目春風亭柳橋にも挨拶に出向いている[40]。「一柳」の「一」は正蔵が尊敬する三遊一朝から取った[40]。自叙伝『噺の咄の話のはなし』での本人の説明によると、明治中頃の噺家番付に改名歴や師弟関係など詳細不明な落語家「春風亭一柳」の名があり[41]、その後色物(曲芸師)の(一柳斎柳一)門下に「春風(はるかぜ)一柳」という人物が存在したといい[41]、この両名を初代・2代目と見なして好生改め春風亭一柳は3代目を自称した[41][注 5]。同じく芸名返却を求められ先に改名していた川柳川柳から「お前は“川柳一柳”になれ」と誘われたが、「漫才じゃあるまいし」と断ったという[47]。
自叙伝出版と自殺
1979年(昭和54年)9月3日に圓生が急逝した時は、圓生宅に駆けつけて亡骸の前で号泣した[48][49]。しかし1980年12月に出版した自叙伝『噺の咄の話のはなし』では、圓生の死を知った直後の気持ちが「嬉しかった。ただむやみに嬉しかった」[50]「これで おれは生きていける。死なずにすむんだ」[51]というものだったと告白した。当時、圓生が落語協会と和解して会長に再就任する形で落語協会に復帰するのではないかという噂話が新聞などに出ており[52]、神経質な一柳は、もし噂通りになれば、自分は今まで以上に圓生に虐げられることになると怯えていた[52]。「嬉しかった」というのはそうした恐怖感から解放されての率直な感想であった[51][16]が、この「圓生が死んで嬉しかった」[注 6]という言葉はここだけが切り抜かれる形で大きく取り上げられた[2][19][53][24][54][55]。
自叙伝出版直後は明るい表情を見せていたが、次第に精神的に落ち込むようになり[54]、写経を始めたり[53][54]、「噺の間の取り方がわからなくなり生きていく望みがなくなった」と妻に語ったりするなど[2][13][56]、言動が周囲に心配されるようになった[54]。投薬治療で快方に向かっていたが[54]、1981年7月9日、自宅の団地屋上から飛び降り自殺した[2][57][54]。
一柳の死について、愛憎入り混じる圓生との師弟関係を原因に挙げるものは多い。兄弟子の川柳川柳は、(一柳は自叙伝の中で圓生の)「悪口を書いて吹っ切ったつもりだったけど、本当は後悔して悩んでいた」[54]と述べ、一柳は圓生に殉じたのかも知れないと推測している[58][54]。仕事斡旋や稽古で一柳の世話になった後輩の立川談四楼も、一柳の自叙伝を「円生への決別宣言」と位置付け、そして自叙伝執筆により「決別したつもりで、あらためて円生が好きなことに気づい」て自分自身をさらに追い詰めたのだろうと推測している[27][53]。弟弟子の三遊亭圓丈は「好生程円生の呪縛から逃れる為に七転八倒した者もいない」と評し[18]、そして一柳(好生)が圓生の呪縛から逃れることは「悲惨な最期を遂げる日まで出来なかった」と述べている[18]。兄弟子の5代目三遊亭圓楽も円丈と同様に呪縛という言葉を使い、「(好生は)うちの師匠の芸の呪縛から逃れたい一心だったんでしょう」と述べている[24]。
略歴
- 1956年(昭和31年)8月 6代目三遊亭圓生に入門。好生を名乗る[10]。
- 1960年(昭和35年)秋 二つ目昇進[59]。
- 1969年(昭和44年)4月 『笑点』の大喜利レギュラーを務める(11月まで)[60]。
- 1973年(昭和48年)9月 10人で真打昇進[35][注 7]。
- 1978年(昭和53年)6月 落語協会分裂騒動で師匠圓生が脱退する際、協会に残り破門される[36]。8代目林家正蔵一門に入り、春風亭一柳と改名[40]。
- 1980年(昭和55年)12月 『噺の咄の話のはなし』を出版。
- 1981年(昭和56年)7月9日 入居していた葛飾区東金町の団地屋上から飛び降り自殺[2]。
- 一柳が家を出たのは午前8時30分、遺体発見は午前8時45分であった[2]。
テレビ出演
好生時代、1969年4月6日から同年11月2日まで『笑点』の大喜利に回答者として出演した[60]。これは、それまで大喜利の回答者であった5代目三遊亭圓楽らが司会の7代目立川談志と対立し、回答者が総入れ替えとなった[62]ためである。
脚注
注釈
- ^ 『新版現代落語事典』[21]の用語解説によれば、落語界で「影法師」(かげぼうし、かげんぼし)とは、独自の芸風を確立することができず師匠の模倣に留まっている様子を指す[21]。
- ^ 山本益博による評価[16]。
- ^ 圓生は個人的に大量真打昇進に反対していたものの、昇進は落語協会の理事会で承認された決定事項であるため、協会の幹部という立場ではそれ以上反対することはできなかった。このため本件は「本心では好生を真打昇進させたくない圓生が、真打昇進を受諾しろと好生を説得する」という構図となった[31]。
- ^ 師匠の前名でもある「橘家円好」の襲名を希望していた[33][19]。
- ^ 3代目春風亭一柳(好生)の説明する初代や2代目とは人物像が食い違うものの、1899年(明治32年)に曲芸師の「春風亭一柳」こと渡辺国太郎という人物(当時34歳)が心中未遂事件を起こし[42][43][44]、朝日新聞、読売新聞、東京日日新聞などで報じられている[42][43][44][45]。『古今東西落語家事典』[46]によると、渡辺国太郎とは(一柳斎柳一)(1866年〈慶応2年〉2月17日 - 1929年〈昭和4年〉2月7日)の本名であり、この渡辺は一柳斎柳一以外に春風亭一柳や春風一柳や春風一柳斎などの芸名も名乗ったという[46]。
- ^ 自叙伝での表現は正確には「嬉しかった師匠の死」[50]「嬉しかった。ただむやみに嬉しかった」[50]であるが、他者からの言及ではしばしば「円生が死んで嬉しかった」[53][54][55]という表現が用いられている。
- ^ 林家木久扇、三遊亭好生、(6代目柳亭左楽)、(4代目三遊亭歌笑)、三遊亭生之助、橘家三蔵、6代目柳家つば女、3代目三遊亭歌奴、2代目柳家小はん、金原亭伯楽の10名が同時昇進[61]。
出典
- ^ a b 古今東西落語家事典 1989, pp. 457–458.
- ^ a b c d e f g 「落語界の”異端児”自殺 春風亭一柳さん 芸に行き詰まった?」『読売新聞東京夕刊』、1981年7月9日、11面。 ヨミダス歴史館にて閲覧。
- ^ 春風亭一柳 1980, pp. 70, 103.
- ^ 青山健三、梅林信夫 著「江戸の庶民娯楽―寄席と落語」、桜井正信 編『東京江戸今と昔: 歴史細見』八坂書房、1980年、89頁。 NCID BN13286648。
- ^ a b c 春風亭一柳 1980, p. 25.
- ^ 春風亭一柳 1980, p. 240.
- ^ 春風亭一柳 1980, p. 26.
- ^ 春風亭一柳 1980, p. 27.
- ^ 春風亭一柳 1980, pp. 27–29.
- ^ a b 春風亭一柳 1980, p. 33.
- ^ 春風亭一柳 1980, p. 35.
- ^ a b 春風亭一柳 1980, pp. 69–71.
- ^ a b 週刊文春 1981, p. 143.
- ^ 春風亭一柳 1980, p. 88-89.
- ^ 春風亭一柳 1980, pp. 134–136.
- ^ a b c d e f g h 週刊文春 1981, p. 142.
- ^ a b c d e f 川柳川柳 2004, pp. 141–142; 川柳川柳 2009, pp. 129–130.
- ^ a b c 三遊亭円丈 1986, p. 97; 三遊亭円丈 2018, p. 105.
- ^ a b c d e 延廣眞治 2001, p. 39.
- ^ 立川談四楼 2001, pp. 108–109.
- ^ a b 新版現代落語事典 1988, p. 34.
- ^ 春風亭一柳 1980, pp. 41, 86.
- ^ 延廣眞治 2001, p. 41.
- ^ a b c 三遊亭圓楽 2006, pp. 238–239.
- ^ a b 春風亭一柳 1980, p. 97.
- ^ 春風亭一柳 1980, p. 40.
- ^ a b 立川談四楼 2001, p. 109.
- ^ a b 春風亭一柳 1980, pp. 100, 107–108.
- ^ 春風亭一柳 1980, pp. 112–118.
- ^ 春風亭一柳 1980, pp. 115–116.
- ^ 春風亭一柳 1980, p. 116.
- ^ 春風亭一柳 1980, pp. 118–119.
- ^ 春風亭一柳 1980, pp. 170–171.
- ^ 春風亭一柳 1980, p. 118.
- ^ a b 春風亭一柳 1980, p. 122.
- ^ a b c 春風亭一柳 1980, pp. 162–164.
- ^ 春風亭一柳 1980, p. 165.
- ^ 川柳川柳 2009, pp. 144, 148.
- ^ 春風亭一柳 1980, pp. 168–171.
- ^ a b c d e 春風亭一柳 1980, p. 172.
- ^ a b c 春風亭一柳 1980, p. 173.
- ^ a b 「皿廻し一柳情死を圖る」『朝日新聞』、1899年8月5日、4面。 聞蔵IIビジュアルにて閲覧。「……落語柳派の社中にて壯士然たる愛嬌者皿廻はしの春風亭一柳事渡邊國太郞(三十四)が昨曉よし原京二の貸座敷松金樓にて娼妓
賑 (二十八)と小刀を以て咽喉 を突き情死を圖りし顛末を記さんに……」 - ^ a b 「皿廻し春風亭一柳の情死未遂」『読売新聞』、1899年8月5日、4面。 ヨミダス歴史館にて閲覧。「……淺草區新旅籠町二番地石井方に止宿せる落語家皿廻し春風亭一柳
事 渡邊國太郎(三十四年)とて寄席の客より受付と呼ばれては嬉しがり居る男なりしが……」 - ^ a b 「北廓の心中未遂(男は春風亭一柳)」『東京日日新聞』、1899年8月5日、3面。毎索にて閲覧。「春風亭一柳といへば皿廻しとして
浮 れ女子 の中に知らるれど…(中略)…渡邊國太郎(三十四)といへば知る人もなかるべき道樂もの……」 - ^ 「皿廻し一柳の放免」『読売新聞』、1899年8月11日、4面。 ヨミダス歴史館にて閲覧。「皿廻し一柳の放免 去る五日吉原貸座敷に於て情死を謀りたる柳派の皿廻し春風亭一柳
事 渡邊國太郎は……」 - ^ a b 古今東西落語家事典 1989, pp. 412, 457–458.
- ^ 春風亭一柳 1980, p. 171.
- ^ 春風亭一柳 1980, p. 16.
- ^ 三遊亭円丈 1986, p. 228; 三遊亭円丈 2018, p. 240.
- ^ a b c 春風亭一柳 1980, p. 8.
- ^ a b 春風亭一柳 1980, p. 14.
- ^ a b 春風亭一柳 1980, pp. 12–13.
- ^ a b c d 立川談四楼 2001, p. 115.
- ^ a b c d e f g h i 吉川潮 2009, pp. 88–89.
- ^ a b 杉江松恋 (2019年1月9日). “芸人本書く列伝classic vol.45”. 本芸 - hon-gei. 2022年1月22日閲覧。
- ^ 延廣眞治 2001, pp. 38–39.
- ^ 週刊文春 1981, p. 141.
- ^ 川柳川柳 2004, pp. 165–166; 川柳川柳 2009, p. 150.
- ^ 春風亭一柳 1980, p. 54.
- ^ a b 『笑点 五十年史』ぴあ株式会社〈ぴあMOOK〉、2016年9月、121頁。ISBN (978-4-8356-3118-9)。
- ^ 吉川潮 2009, p. 49.
- ^ 笑点探偵団『笑点の謎』河出書房新社、2001年2月、80頁。ISBN (4-309-26454-9)。
関連項目
参考文献
書籍
- 春風亭一柳『噺の咄の話のはなし』晩聲社〈ヤゲンブラ選書〉、1980年12月。 NCID BN09572530。
- 三遊亭円丈『御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち』主婦の友社、1986年4月。ISBN (4-07-923928-9)。
- 穴田音羽『新版現代落語事典』光風社、1988年6月。ISBN (4-87519-012-3)。
- 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会『古今東西落語家事典』平凡社、1989年4月。ISBN (4-582-12612-X)。
- 立川談四楼『落語的ガチンコ人生講義』新潮社〈新潮OH!文庫〉、2001年7月。ISBN (4-10-290104-3)。
- 川柳川柳『天下御免の極落語 平成の爆笑王による”ガーコン”的自叙伝』彩流社、2004年6月。ISBN (4-88202-894-8)。
- 三遊亭圓楽『圓楽 芸談 しゃれ噺』白夜書房、2006年7月。ISBN (4-86191-187-7)。
- 吉川潮『戦後落語史』新潮社〈新潮新書〉、2009年。ISBN (978-4-10-610343-8)。