新渡戸 傳 又は 新渡戸 伝(にとべ つとう)は、江戸時代後期の武士・商人。盛岡藩家老、のちに大参事。材木商として成功し、新渡戸家の家計を助けた。南部利敬の家老・(新渡戸丹波)((季達))は宗家筋(伝蔵家初代・(常綱)が弟で、丹波の祖・(季紹)が兄)にあたる。
略歴
寛政5年(1793年)11月7日、(新渡戸伝蔵)(維民、民司、平六、痴翁)[3]の子として花巻城にて誕生[1]。幼名、縫太[1]。諱は常澄[1]。号は太素[1]。
南部藩の勘定奉行だった文政9年(1826年)、藩の財政を立て直すために、45歳で原野だった三本木原の開墾を始める[4]。明治元年(1868年)に盛岡藩の目付役となる[5]。
明治4年(1871年)9月27日に死去、享年79(満77歳没)[2]。三本木の開拓事業は、子の十次郎、孫の七郎(新渡戸稲造の兄)の時代まで受け継がれたが、明治20年に資金難から行き詰まり、第一国立銀行盛岡支店八戸出張所が融資したが、これも焦げ付き、同行の頭取・渋沢栄一が回収不能となった不良債権を個人で代弁し、その担保物件であった原野を引き受け、渋沢農場を開いた[4]。