新村 忠雄(にいむら ただお、1887年(明治20年)4月26日[1] - 1911年(明治44年)1月24日)は、社会主義者でアナーキストである。幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人で、計画の首謀者とも言われる。号は秋峰。
略歴
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長野県埴科郡屋代町(現・千曲市)出身[1]。生家は豪農。1897年屋代小学校尋常科卒業[1]、その後高等科に4年、補習科に1年在学した[1]。
郷里で信仰に疑問を持って無神論者となり、1903年(明治36年)上京し[1]、幸徳秋水と堺利彦の『平民新聞』を愛読する[1]。同年、日本メソジスト教会で受洗する[1]。1906年(明治39年)、クロポトキンの『無政府主義の哲学』を読んでアナキズムを知った。1908年(明治41年)信濃社会主義教会に参加し[1]、長野市の「黒潮会」や上田市の「社会主義談話会」等の地方同志と盛んに交流するようになる。同年7月15日『高原文学』を発行[1]。自身を直接行動論者と称した。
後に友人の紹介で書生として秋水の平民社に住み込むが、赤旗事件などで同社は解散。この復讐の機会をうかがっていた。同志の宮下太吉らと皇太子の暗殺を計画して、爆発物を造る目的で塩酸カリを入手する。宮下が勤めていた明科製材所の近くで爆発実験を行った。しかし新村は予てより警察の尾行をうけていたために露見。
1910年5月25日に長野県の自宅で爆発物取締罰則違反の容疑により逮捕され(明科事件)、幸徳事件(大逆事件)により1911年1月24日午後2時50分新村の処刑が執行された。享年23。
事件を重大視した警察は、宮下太吉、管野スガ、古河力作ら26名が天皇暗殺の構想を抱いていたと断定したが、実際の暗殺計画は少なくとも当初は皇太子を標的としていて、宮下と新村が中心となって長野県で準備されていた。湯河原町(神奈川県)で湯治をしていた秋水や管野は、計画の具体的な関与はなかった。このため警察によるフレームアップ[注釈 1]であったと批判される。
兄の新村善兵衛(1881年3月16日-1920年4月2日)も明科事件で逮捕されたが、幸徳事件で懲役8年の判決を受けて[2]、1915年に出獄した。
脚注
注釈
- ^ 事件や証拠を捏造し、弾圧や攻撃の口実として、裁判や捜査を政治的に利用すること。[要出典]
出典
参考文献
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- 茂木一次『大逆事件のリーダー 新村と幸徳と私』金園社、1956年。(ASIN) B000JAY1T2