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斎藤百合

齋藤 百合(さいとう ゆり、1891年明治24年)3月31日 - 1947年昭和22年)1月17日)は、日本社会運動家盲人女性のための教育施設福祉施設を設置し、その地位向上に力を尽くした。旧名は野口小つる。

生涯

齋藤百合は、愛知県八名郡石巻村(現・豊橋市)にて、野口浪太郎の次女・小つるとして生まれた。父の浪太郎は旅まわりの浪曲師で、母のきくは村の旧家の娘であったが彼に心を寄せ、駆け落ち同然に所帯を持ち、その間に小つるたちが生まれた。当初、小つるは両親に連れられて興行先の楽屋で幼い日々を過ごしたが、後に両親の結婚を認めた母の実家に引き取られ、両親が興行に出ると祖父母の下で育った。しかし、小つるは3歳の時に高熱を伴うはしかにかかり、その後の栄養失調失明した。9歳時に按摩師の下に弟子入りしたが、他人の体を揉む行為を好きになれなかった小つるは、1902年(明治35年)春に岐阜聖公会訓盲院(岐阜県立岐阜盲学校の前身)へ入学して寮生活を始め、同校で学問する楽しさを知った。聖公会の青年たちが彼女に読み聞かせを行ったほか、小つるは全額給費生として鍼按を学び、英文詩集の暗記を進んでマスターし、宣教師とともに外国人の家庭に招かれてオルガンを弾くなどして、英会話も身につけた。1908年(明治41年)に岐阜聖公会訓盲院を卒業して同校の代用教員になり、11月には聖公会で洗礼を受けてキリスト者になった。

1911年(明治44年)4月、小つるの才能を認めた岐阜聖公会訓盲院長は、彼女を同院の派遣生として、全額給費で東京盲学校師範科鍼按科に送った。1913年大正2年)に同校を卒業して岐阜訓盲院の正教員になったが、2年後の1915年(大正4年)秋に病院勤務のマッサージ師・齋藤武弥と結婚し、東京雑司ヶ谷に新居を持つと同時に齋藤百合へ改名した。1918年(大正7年)、新聞を読んでもらった際に「東京女子大学設立。女性を1人の人間として伸ばすための教育を行う」という記事の文を聞いて心を突き動かされた百合は、夫の助言も得て同校を受験した。当時26歳、2児の母にして全盲だった彼女は、大学には特別生として受け入れられ、1922年、第1回卒業66名の1人として卒業すると、東京盲学校同窓会主事として機関誌『むつぼしの光』の編集にあたった。

盲人女性が置かれた地位の低さを以前から憂いていた百合は、1928年(昭和3年)11月、武蔵野婦人会(のち陽光婦人会)を組織し、盲人女性が安心して働ける鍼灸按摩の治療所を開設し、編み物や組紐の授産教室も始めたが、3年で経営は行き詰ってしまった。改めて、1935年(昭和10年)に東京女子大学学長を後援会長におくなど大学関係者30名を中心とした後援組織を固め、陽光会ホームを発足させた。一軒屋を借りて、機関誌『点字倶楽部』を発行し、鍼按外来治療室、点字教室、編物教室、点字出版、失明者相談室などを置いて、盲女子の保護・訓練を行ったほか、地方の盲人の宿泊も受け入れた。百合は講演や原稿執筆で得た収入をこの事業につぎ込んだが、公的助成がなかったため、4人の子を抱えた家庭生活は常に貧しかった。さらに太平洋戦争の戦局悪化で東京への空襲が始まると、陽光会ホームは閉鎖せざるを得なくなり、1944年(昭和19年)には百合自身も陽光会のメンバーとともに浜名湖の奥に疎開した。長女・次女は結婚し、次男は出征(のち戦死)、夫の武弥は東京に残ったが、終戦後の1946年(昭和21年)1月に東京駅で不慮の災難に遭い死亡した。その翌1947年(昭和22年)1月31日、百合は風邪から肺炎を併発し、55歳で逝去した。

死後

盲人女性の地位向上のために尽力した斎藤百合は、『道ひとすじ―昭和を生きた盲人たち―』で、昭和時代に活躍した著名な盲人100人の一人に挙げられている。また、百合の次女で女優の斎藤美和は、1994年に「斎藤百合の生涯製作委員会」を結成し、『視覚障害者に光を! 盲目の斎藤百合の生涯』という映画を完成させた。『光に向って咲け―斎藤百合の生涯』(岩波新書)では、陽光会ホームで学び働いた粟津キヨが、齋藤百合の考えと生き方を紹介している。

年譜

  • 1891年(明治24年)3月31日 - 愛知県豊橋在で生まれる。
  • 1893年(明治26年) - はしかの高熱などのために失明する。
  • 1901年(明治34年) - 豊橋の按摩師に弟子入りする。
  • 1902年(明治35年)春 - 岐阜聖公会訓盲院に入学する。
  • 1908年(明治41年) - 岐阜聖公会訓盲院を卒業し、同校の代用教員になる。
  • 1911年(明治44年)4月 - 岐阜訓盲院委託生として東京盲学校師範科鍼按科に入学する。
  • 1913年(大正2年)3月 - 同校を卒業し、岐阜訓盲院の正教員になる。
  • 1915年(大正4年)秋 - 齋藤武弥と結婚し、齋藤百合と名乗る。
  • 1916年(大正5年)8月 - 長女・久美を出産する。
  • 1918年(大正7年)4月 - 開校したばかりの東京女子大学高等部に入学する。
  • 1922年(大正11年)4月 - 東京女子大学英文科に入学(翌年秋まで在学)。
  • 1925年(大正14年) - 東京盲学校研究科英文科に入学(1928年まで在学)。
  • 1928年(昭和3年)11月 - 武蔵野婦人会(のち陽光婦人会)を組織する。
  • 1930年(昭和5年) - 盲女子のため陽光会治療所を開設する。
  • 1935年(昭和10年) - 陽光会ホームを発足させる。
  • 1937年(昭和12年) - 盲女子高等学園設立のためヘレン・ケラーの講演会などを開く(盲女子高等学園の設立は実現できなかった)。
  • 1944年(昭和19年) - 陽光会のメンバーとともに現在の静岡県浜松市に疎開する。
  • 1946年(昭和21年) - 夫武弥が逝去。疎開先から東京に戻る。
  • 1947年(昭和22年)1月31日 - 風邪から肺炎を併発し逝去、享年55。

参考文献

  • 『道ひとすじ―昭和を生きた盲人たち―』 あずさ書店、1993年10月、(ISBN 4900354341)
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