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徳川 綱誠(とくがわ つなのぶ/つななり)は、江戸時代前期の大名。尾張藩3代藩主。新陰流第7世。号は誠公。字は子明。官位は正三位・権中納言。徳川家綱、徳川綱重、徳川綱吉からは甥であり、又従兄弟でもある。 また、昭和天皇は雲孫にあたる。
経歴
2代藩主・徳川光義(のち光友)の次男(正室の子であるため長男とされた)として誕生した。母は徳川家光の長女・霊仙院(千代姫)。幼名は五郎太。
明暦3年(1657年)に元服し、叔父の4代将軍・徳川家綱と父・光義(光友の前名)より1字ずつ授かり綱義(つなよし)に改名する。義の文字は、源氏の祖八幡太郎源義家にちなむ名であり、尾張徳川家御連枝の四谷松平家(高須藩)・大久保松平家(梁川藩)の通名でもある。五代将軍に綱吉が就任したことにより、同音を避けるために綱誠に改名する。
元禄6年(1693年)、父・光友の家督を相続した。綱誠の治世は父の陰に隠れ、あまり目立たない。幼少より血統の良さと英明の評判が高く、文教に力を注いだのが知られる。藩領の地誌である『尾張風土記』の編纂を元禄8年(1698年)に命じたが、綱誠の病没により未完成のまま草稿が残り、後の宝暦2年(1752年)に完成する『張州府誌』の母体となった。
元禄12年6月5日(1699年7月1日)、綱誠は急死した。享年48。草苺を食し食あたりしたのが死因と言われている。綱誠は生前より大食漢、食道楽として知られていた。跡を十男の吉通が継いだ。
官職および位階等の履歴
※日付=旧暦
系譜
正室との間に子はできず、13名の側室との間に40人の子女(22男18女)をもうけるも、その大半は夭折した。子に徳川吉通(十男)、徳川継友(十一男)、松平義孝(十五男)、松平通温(十八男、喜之進・安房守)、徳川宗春(十九男)、(松姫)(十七女、前田吉徳正室)、(喜知姫)(叔父徳川綱吉養女)らがいる[注釈 1]。
- 父:徳川光友
- 母:千代姫(霊仙院)
- 正室:新君(瑩珠院、父:広幡忠幸)
- 側室:礼与(日下氏)
- 長男:(五郎八)(1676年 - 1678年)(3)
- 側室:佐野
- 次男:(源之助)(1678年)(1)
- 側室:下総(河野氏)
- 長女:悦姫(1679年 - 1681年)(3)
- 側室:梅小路(梅昌院、酒井氏)
- 三男:(鶴丸)(1680年)(1)
- 四男:(松之助)(1682年 - 1683年)(2)
- 五女:菊姫(1684年 - 1685年)(2)
- 六男:(喜太郎)(1686年 - 1687年)(2)
- 十一女:綾姫(1692年 - 1694年)(3)
- 十四男:某((秋光院)、1693年)(1)
- 十三女:政姫(1695年)(1)
- 側室:段(遠寿院、浅岡氏)
- 次女:初姫(1683年)(1)
- 側室:津解
- 三女:八代姫(1684年)(1)
- 側室:佐子
- 四女:清姫(1684年)(1)
- 側室:難波(蓮乗院)
- 六女:春姫(1685年 - 1686年)(2)
- 八男:(内膳)(1688年 - 1691年)(3)
- 九女:光姫(1690年 - 1691年)(2)
- 側室:和泉(泉光院、林氏)
- 七男:(亀太郎)(1687年 - 1692年)(6)
- 九男:(常三郎)(1688年 - 1691年)(4)
- 十二男:徳川継友(1692年 - 1730年)(39)
- 側室:下総(お福、本寿院、坂崎氏)
- 七女:蔦姫(1688年)(1)
- 十男:徳川吉通(1689年 - 1713年)(25)
- 十女:立姫(1691年 - 1696年)(6)
- 十六男:(岩之丞)(1694年 - 1705年)(12)
- 側室:阿古(清遊院、鈴木氏)
- 八女:猶姫(1688年 - 1689年)(2)
- 十一男:(晴之丞)(1690年)(1)
- 十三男:(石松)(1692年 - 1694年)(3)
- 側室:万(心常院)
- 十二女:伊羅姫(1692年 - 1694年)(3)
- 側室:梅津(宣揚院、三浦氏)
- 十五男:(城次郎)(1694年 - 1697年)(4)
- 二十男:徳川宗春(1696年 - 1764年)(69)
- 十五女:某(晴竜院、1698年)(1)
- 側室:唐橋(卓然院、里見氏)
- 側室:菊山(蓮養院、松永氏)
- 十八男:(繁之丞)(1695年 - 1696年)(2)
- 側室:倉橋(利清院、上村氏)
- 側室:新大夫(西生院、中東氏)
- 二十二男:(増之丞)(1699年)(1)
- 養子
脚注
注釈
- ^ 子女の出生順や数は系図によって多少異なる。胎死や流産で名前が付けられる前に死んだ子供がいるからである。