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庄子春男 (サッカー選手)

庄子 春男(しょうじ はるお、1957年4月18日 - )は、宮城県仙台市出身の元サッカー選手川崎フロンターレの元エグゼクティブアドバイザー。

庄子 春男
名前
カタカナ ショウジ ハルオ
ラテン文字 SHOJI Haruo
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1957-04-18) 1957年4月18日(66歳)
出身地 宮城県仙台市
選手情報
ポジション FWMF
ユース
1973-1975 宮城県工業高校
1976-1979 東北学院大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1980-1886 富士通
1. 国内リーグ戦に限る。
(■テンプレート)((■ノート) ■解説■サッカー選手pj

来歴

西多賀中から宮城県工業東北学院大を経て、1980年富士通入社。富士通サッカー部で活躍。引退後は10年間のサラリーマン生活を経て、フロンターレ創設2年前の1995年12月から川崎フロンターレに携わる。最初は運営、広報、チケットなどの業務を行い、強化部長、強化本部長を歴任。選手獲得など現在に至るまでのフロンターレをつくり上げてきた。2021年1月10日付で強化本部長を退任し、エグゼクティブアドバイザーに就任したが2023年3月31日で退任した[1][2]

アマチュアのJFLから出発した当時は庄子氏を含めてスタッフは3人しかおらず、広報、試合運営などの多忙な業務を分担。「Jリーグの優勝は目標だったけれど、夢みたいな感じだった」と振り返る。

鹿島で要職に就く鈴木満とは同郷かつ同い年で、TVや雑誌で対談もするなど親交がある[3][4]

エピソード

もがく新戦力にかけた言葉は J1王者を築いた男の信念

 クラブの前身・富士通サッカー部のOBだ。プロ化に向けて動き出した1995年末から汗をかいてきた。

 「最初のフロントスタッフは自分を入れて3人だけ。広報からチケットの手配、グッズの準備まで何でもやった」

 監督や選手との契約などチームづくりの根幹を長年担った。

 貫いた信念がある。

 「第一印象を大事にする」

 2002年の6月だった。チームの練習に参加していた1人の大学生のプレーが頭に残った。周囲は別の選手を高く評価していたが、持論を曲げずに声をあげ続けた。

 そうして獲得したのが、昨季までプロ生活18年にわたってクラブを支えたMF中村憲剛さんだった。

 「何かあれば相談してもらえるような、信頼関係をつくる」

 練習をクラブハウスの窓越しにながめるのではなく、選手やスタッフと同じ練習着に着替え、スパイク姿でピッチに立った。

 「チームを管理しているとか、チェックしているとか思われちゃダメ。一緒に戦う姿勢を持たないと一つになれないから」

 雨の日も風の日も、選手たちと同じ目線でいるよう心がけた。

 13年には、指揮を執って2年目の風間八宏監督が開幕から6戦連続で勝ちを逃し、進退を危ぶむ空気が流れた。

 「試合の内容は悪くない」と庄子さんは感じていた。苦しむ指揮官を飲みに誘い、自分の気持ちを伝えた。

 「切るなんてことは考えていない。お前がいなくなるときは、俺も一緒だ」

 成績は持ち直し、3位でシーズンを終えた。5季にわたってチームを率いた風間監督がつくりあげた攻撃的なスタイルは、川崎の代名詞になった[5]

憲剛「父親のような存在」 連覇の川崎を支え続けた男

 サッカーのJリーグで川崎フロンターレが10日、リーグ2連覇を達成した。長年強化担当としてクラブを支え、強豪チームをつくり上げた庄子春男取締役強化本部長は「うれしいね」と顔をほころばせた。

1993年のJリーグ発足時の10チームを除く“後発クラブ”では初のリーグ連覇。庄子本部長は試合後にはピッチに降り、快挙を成し遂げた選手一人一人を固い握手でねぎらった。

 現役時代は川崎の前身で、当時日本リーグ2部だった富士通でプレー。引退後は10年間のサラリーマン生活を経て、フロンターレ創設前年の1996年からクラブに携わってきた。アマチュアのJFLから出発した当時は庄子氏を含めてスタッフは3人しかおらず、広報、試合運営などの多忙な業務を分担。「Jリーグの優勝は目標だったけれど、夢みたいな感じだった」と振り返る。

 2003年から9シーズン在籍し、J1通算116得点を挙げたジュニーニョをはじめとした有力なブラジル人選手の発掘にも手腕を発揮し、2005年のJ1再昇格後はリーグ優勝を狙う強豪へと成長させた。2011年に強化の最高責任者に就任してからも貫くのは徹底した現場主義だ。

 「チームの雰囲気を感じ取りたいし、練習も見ないで選手を評価できない」。還暦を越えた今も練習ジャージーに袖を通し、毎日のようにグラウンドでチームの様子に目を配る。

 意識するのは「近すぎず、遠すぎず」という選手との絶妙な距離感だ。「チームの雰囲気はどうなんだ」「最近調子はどうだ」と声掛けも積極的に行い、在籍16年目の中村憲剛選手は「チームにとって父親のような存在」とその大きさを語る。

2017年のリーグ初制覇までは、カップ戦を含めて8度の準優勝に泣いた。宮城工高時代の同級生でもある鹿島アントラーズ・鈴木満常務ら優勝経験クラブの強化担当者からは「一回タイトルを取れば、どんどん取れるようになるよ」と励まされてきたという。

 この連覇で、その助言もいくらか現実味を帯びてきた。「最初は半信半疑だったけれど、経験って大きいんだなと感じるよね」。常勝への階段を上り始めたチームをこれからも温かい目で見守っていく[6]

所属クラブ

脚注

  1. ^ “憲剛を発掘した川崎の前GM・庄子氏は「いい指導者になる」と将来に期待…ありがとう中村憲剛「14」の物語―2021年元日 川崎フロンターレを引退―(5)”. 2022年9月16日閲覧。
  2. ^ “エグゼクティブアドバイザー退任のお知らせ”. 川崎フロンターレ. 2023年4月11日閲覧。
  3. ^ “Jリーグ強豪クラブ 宮城県出身同級生GM対談”. 2022年9月16日閲覧。
  4. ^ 『No.1420「Jリーグクラブ番付」』日本スポーツ企画出版社、2022年5月26日。 
  5. ^ “もがく新戦力にかけた言葉は J1王者を築いた男の信念”. 2022年9月16日閲覧。
  6. ^ “憲剛「父親のような存在」 連覇の川崎を支え続けた男”. 2022年9月16日閲覧。

関連項目

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