» www.Giftbox.Az - Bir birindən gözəl hədiyyə satışı
ウィキペディアランダム
毎日カテゴリ
共有: WhatsappFacebookTwitterVK

常田久仁子

常田 久仁子(ときた くにこ、1928年 - 2010年11月3日)は、日本のテレビプロデューサー

来歴

東京府(現:東京都)出身[1]1951年文化放送へ入社。その後1959年フジテレビ開局と同時に転籍。社会教育番組を手掛けた後、演芸畑へ異動。寄席へ通い、萩本欽一三波伸介と出会い『(欽ちゃんのドンとやってみよう!)』(1975年 - 1980年)等を手がけた[2]1976年に(日本女性放送者懇談会賞)を受賞する[3]

フジテレビでは役員待遇副部長となるが退職し、フリーのプロデューサーとして千代田企画に移籍[2]。『欽ドン!』の制作に限りフジテレビに籍を残しつつ、移籍後の番組として『三波伸介の凸凹大学校』(1977年 - 1982年)・『アイ・アイゲーム』(1979年 - 1985年)・『TVプレイバック』(1985年 - 1989年)・『クイズ!早くイッてよ』(1989年 - 1992年)等を手掛ける。

その後、『はやく起きた朝は…』(2005年 - )ではエグゼグティブプロデューサーとスーパーバイザーとして携わり、80歳過ぎまで現役で活動した[4]

2010年11月3日、(致死性不整脈)のため東京都板橋区内の病院で死去。82歳没[1]。同年11月26日東京都内でお別れ会が行われた[5]

人物

人気バラエティ番組を手掛けた1980年代には、テレビドラマを手掛けるTBS石井ふく子プロデューサーとともに、テレビ界の二大女性プロデューサーと呼ばれた[2]

1968年に始まる『お昼のゴールデンショー』( - 1972年)で初めて仕事をともにした萩本欽一とは、その後も『コント55号の世界は笑う』(1968年 - 1970年)・『欽ドン!』を手掛けており、萩本が恩人と仰ぐ一人である。浅草時代に荒っぽい喋りだった萩本にていねいな言葉遣いをするように注意し、萩本は「『欽ちゃん』のしゃべりは、お常さんがつくってくれたんです」と語っている[6]。また、萩本は「僕が今テレビをやりたいと思うのは、齋藤さん(日本テレビ齋藤太朗)と常田さんの2人だけ」「常田さんは、いろんなことを言った中から、それをさばいて夢を実現させてくれる人」とも語っている[7]。お別れ会の際にも「浅草から出てきた小汚いタレントを、萩本欽一という別の人間にしてくれた」と、号泣しながら感謝の言葉を述べた[5][8]

手がけた番組

フジテレビ時代

千代田企画時代

脚注・出典

[脚注の使い方]
  1. ^ a b “常田久仁子さん死去 テレビ番組プロデューサー”. 共同通信社. 47NEWS. (2010年11月8日). http://www.47news.jp/CN/201011/CN2010110801000806.html 2012年12月18日閲覧。 []
  2. ^ a b c 伊東弘祐『ブラウン管の仕掛人たち : テレビ最前線・現代プロデューサー事情』日之出出版、1983年5月20日、38 - 45頁。(NDLJP):12275733/22。 「常田久仁子 女ひとり、笑いの天国を行く」
  3. ^ “歴代受賞者”. 日本女性放送者懇談会 SJWRT. 2016年6月21日閲覧。[]
  4. ^ 横澤彪のチャンネルGメン∞「80歳で現役!女性プロデューサー常田久仁子さん」 J-CASTテレビウォッチ 2007年5月9日
  5. ^ a b 萩本欽一“母”に感謝の涙「別の人間にしてくれた」[] - スポーツニッポン、2010年11月27日
  6. ^ 小林信彦、萩本欽一『小林信彦 萩本欽一 ふたりの笑タイム 名喜劇人たちの横顔・素顔・舞台裏』集英社、2014年、pp.57-58
  7. ^ 『ディレクターにズームイン!』(齋藤太朗著、日本テレビ、2000年)p.279
  8. ^ 朝日新聞別刷り「Be on Saturday」2011年6月18日付、b9面「順風満帆―萩本欽一(中)」より
ウィキペディア、ウィキ、本、library、論文、読んだ、ダウンロード、自由、無料ダウンロード、mp3、video、mp4、3gp、 jpg、jpeg、gif、png、画像、音楽、歌、映画、本、ゲーム、ゲーム。