概要
高山市集落は岡山県と広島県に跨る吉備高原の中にあたる[1]。標高は550m 〜 600mにあり、「上市」、「中町」、「下市」と3つの集落で構成された市街地を形成し、歴史ある町並みが残るエリアとなっている。
歴史
「高山市」という名は、かつて市場が開かれていた地であることを示すものである。現在の高梁市川上町高山市と井原市芳井町東三原に跨る中心集落地は、備中笠岡(現: 岡山県笠岡市)と備後東城(現: 広島県庄原市)を結ぶ東城往来のほぼ中間(笠岡から8里、東城から9里。)に位置し、中世の時代に市が開かれ、中世から大正初期までの間、この地域一帯の物資輸送の中継地として市場町を形成。また(穴門山神社)の門前町としても栄えた。
高山市の市場圏は「高山八八里」と呼ばれ、約8里離れた八方の地点(東城、上下、高梁、成羽、笠岡、矢掛、福山、府中)との繋がりにより、川上郡の中では成羽と並ぶ商業の二大中心地を形成していた。そのため、高山市を中心とした形で四方八方に延びる街道は、主要幹線であった東城往来も含め、総称として「高山往来」あるいは「高山市往来」とも呼ばれていた。
明治以降は、東城往来の経路変更(現: 岡山県道・広島県道9号芳井油木線)や、広島県道福山東城線の整備(現: 国道182号)といった道路網の変化により、物資輸送の中継地としての拠点性が徐々に失われ、1935年(昭和10年)に中町で発生した火災で大火に襲われ、繁栄の幕は閉じられることとなる。
現在は、山村の小さな集落地に衰退しているものの歴史ある古い町並みは現存している。
沿革
この節の加筆が望まれています。 |
- 1871年(明治4年)7月:廃藩置県。
- 1871年(明治4年)11月15日:深津県に属す。
- 1872年(明治5年)6月7日:深津県が県名を小田県に改称。
- 1875年(明治8年)12月10日:小田県が岡山県と合併をし、岡山県に属す。
- 1887年(明治20年)6月1日:川上郡高山市村が郡内の高山村・大原村と合併をし、川上郡高山村が成立。
- 1889年(明治22年)6月1日:町村制施行、(高山村)の地名となる。
- 1935年(昭和10年)5月26日:中町で火災発生。大火となる。
- 1954年(昭和29年)4月1日:合併により川上町の地名となる。
- 2004年(平成16年)10月1日:合併により高梁市の地名となる。
現在の状況
交通
- 道路
- 旧街道
- 高山往来 (高山市往来)
- 東城往来 (雲州街道 / 笠岡往来 などとも。)
- 石州街道 (高山往来 / 成羽往来 などとも。)
- 平川往来 (伯州街道 / 備後往来 などとも。)
アクセス
- 最寄りIC
- 最寄り駅
脚注
参考文献
- 赤木誠一 (松毬子) 著 『吉備高原 花の弥高山』 《街の灯・高山市物語》、1988年(昭和63年)3月吉日。
- 赤木誠一 (松毬子) 著 『神山散歩』 《弥高山;高山市;穴門山;杖立》、1994年(平成6年)4月吉日。
- 赤木誠一 (松毬子) 著 『高山市風土記』 《穴門山;弥高山》、1996年(平成8年)10月吉日。
- 岡山大学教育学部内 地域研究会 編著 『芳井町誌』、芳井町教育委員会内 芳井町誌刊行委員会、1972年(昭和47年)3月31日。
- 川上町教育委員会 (町史編纂委員会) 編著 『川上町史』 《地誌編》、川上町役場、1991年(平成3年)3月31日。
- 川上町教育委員会 (町史編纂委員会) 編著 『川上町史』 《通史編》、川上町役場、1994年(平成6年)9月30日。
- 富阪晃 著 『歴史散歩 岡山町並み紀行』、山陽新聞社、1999年(平成11年)6月5日。
外部リンク
- 高山市の古い町並み ‐ 日本再発見!! 伝統的な古い町並みと集落・酒蔵探訪「一路一会」
- - ウェイバックマシン(2006年5月31日アーカイブ分) ‐ 郷愁小路
- 岡山県川上郡高山村 (33B0160003) | 歴史的行政区域データセットβ版 - Geoshapeリポジトリ(高山村の西半分が1887年まで存在した高山市村にあたる)