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山本善隆

山本 善隆(やまもと よしたか、1951年1月29日 - )は、大阪府出身のプロゴルファー城陽カントリー倶楽部所属。

 山本 善隆 
Yoshitaka YAMAMOTO
基本情報
名前 山本 善隆
生年月日 (1951-01-29) 1951年1月29日(72歳)
身長 173 cm (5 ft 8 in)
体重 75 kg (165 lb)
出身地 大阪府
経歴
成績
優勝回数 18勝(うち日本ゴルフツアー13勝)
(テンプレートを表示)

経歴

茨木カンツリー倶楽部とは目と鼻の先にある茨木市立豊川中学校の出身で、周辺にはプロゴルファーやコース関係者が多数住んでいた[1]。父・幸雄がプロゴルファーであったため、ごく当たり前にゴルフと共に育った[1]。幼稚園から中学校まで同級生で、プロとして40年以上が経った今でも仲の良い中村通の家もあったほか、近くには田圃が広がっており、秋の稲刈りが終わると子供達の遊び場となった[1]。大勢でゴルフ場に忍び込み、プレーしたこともあった[1]

中学生になってからは真剣に取り組み始め、卒業後は進学するか、就職するかの選択が近づくにつれ、仕事として意識するようになった[1]。父がヘッドプロとして働いていた奈良県の飛鳥カンツリー倶楽部に夏休みに行ってラウンドも経験し、85前後のスコアが出るようになっていた[1]。中学3年になって一番身近なゴルフで食べていくことを決め、1970年大阪万博で周囲が開発されることを見込んで造られた千里ニュータウンゴルフガーデンに父が移っていたこともあり、ここに就職[1]。それでも当時は「トーナメントがあんなに増えるとは思ってなかったし、親父がプロで食べていけてるんだから、と思っていたくらい」という軽い気持ちであり、仕事をしながら、時間があれば球を打った[1]。先生は父であったが、手取り足取りの指導を受けたわけではなく、当時としては当たり前のように、自分で考え、練習を重ねた[1]

就職して1年が過ぎた頃、近所に住む(山田弥助)(後に関西プロゴルフ協会会長、日本プロゴルフ協会副会長を歴任)が京都府にある城陽カントリー倶楽部の研修生の話を持って来てくれた[1]。実は、息子をゴルフ場の研修生にしたいと考えた父が、山田に頼んでおいたのがきっかけであった[1]。当時、城陽CCにいたのが、教え方では関西ナンバー1といわれた新井進で、元々理論的にゴルフをしたいと思っていた新人研修生の山本に、新井の教えはピタリとハマった[1]。新井は説明した後に言った通に打って見せ、基本的なことを教わった[1]。研修生時代から師匠や12歳年上の先輩プロ、能田征二らと一緒にラウンドしていたことで成長し、周囲から「トーナメント経験もある二人とプレーして、勝ったり負けたりするようになったらプロテストに受かるよ」と言われるようになり、合格ラインが14オーバーであったテストで、ただ一人アンダーパーとぶっちぎりのトップで合格[1]。不安材料は一つもない状態でのプロ入りとなったが、その後も努力を続け、朝は10kmの坂道を走ってコースへ向かう[1]。「1日でも休んだら努力とはいわない」と、雨の日も風の日も、走り続けた[1]。休日こそ一日中が自分の時間と考え、走ってコースに行き、練習に明け暮れた[1]。雨が降ると、客がいないのをいいことにバッグ置き場にマットを敷いて、練習グリーンに向かってボールを打ち始めた[1]。時にはマットを敷くこともせず、コンクリートの上から直に打った[1]。ボールをグリーンにとらえないと、手首もクラブも痛めることになるため、さらにショットの精度は上がった[1]

1972年には瀬戸内サーキット岡山で初優勝を挙げ、1973年にはマレーシアオープンで杉本英世、グラハム・マーシュ(  オーストラリア)に次ぐ3位に入る[2]。同じ頃に売り出した関西の若手、幼なじみの中村、宮本康弘、吉川一雄と共に「関西の若手四天王」といわれ、シードも常にトップ10に定着し続けてきた。1975年にはブリヂストンオープンでツアー初制覇、サントリーオープンで2勝目を挙げる。1976年にはワールドカップ日本代表に選出され、団体では村上隆とのペアでセベ・バレステロス&マニュエル・ピネロ(  スペイン)、ジェリー・ペイト&デイブ・ストックトン(  アメリカ合衆国)、郭吉雄&許勝三(  中華民国)、ブライアン・バーンズ&サム・トーランス(  スコットランド)に次ぎ、エルネスト・ペレス・アコスタ&マルガリート・マルティネス(  メキシコ)と並んでタイの5位に入った。全盛期の1970年代はトップの高い、スイングアークの大きな美しいスイングの持ち主として活躍し、ロングショットに定評があり、特にロングアイアンの名手と言われたほどであった。

1980年には関西オープンで最終日に6打差首位でスタートしながら82を叩いて優勝を逃し、群馬県のノーザンCC赤城Gで行われた日本プロに参戦[3]。初日はベテラン河野高明、地元群馬出身の中島常幸、6年目で初の首位発進という高橋五月が2アンダー69で回った[3]。河野は2番パー5と8番パー3でチップインバーディー2つが効き、2年半ぶりの首位発進に、日刊スポーツの取材では「チップイン2つは久しぶり。パットのラインが分からないところは無理に狙わないで堅くパットでいった」と攻略法を説明している[3]。高橋は「え?オレがトップ?みんなスコアが悪いなんておかしいよ」と予想していなかったが、14番パー5で第2打を20cmにつけるイーグルが効いた[3]。中嶋は実家から1時間20分ほどと近いコースに「読み違いなし。パットは絶好調」というように地元の利を生かした[3]。2日目は高橋が踏ん張って5バーディー、3ボギー、1ダブルボギーのイーブンパー71で通算2アンダーをキープ[3]。21歳でゴルフを始め、26歳でプロテストに合格、6年目の32歳で2日間首位は初めての高橋は「へたくそなんだからそれなりにやったのが良かった」と言い「シード選手になるのが夢」と話している[3]。首位に並んだのが1967年にこの大会を制しているベテランの宮本省三で、3バーディー、2ボギーの70に手堅くまとめた[3]。宮本は報知新聞に「パットに自信がないのによく入っている。入れようとすると失敗するので、おそるおそる打ったほうがいいみたいだ」と、コメントした[3]。河野は73、中嶋は77を叩いて後退。1打差3位に尾崎健夫と磯村芳幸がつけたが、3日目には尾崎将司が浮上[3]。後半の11番で2mを沈めると、14、15番連続バーディー。16番をボギーにしたが、18番で6mを入れて68をマーク、通算1アンダーで首位に立った[3]。尾崎将は「グリーンをつかんだというよりは、ここじゃないかと思って打っている」と、難グリーンを表現し「ゴルフの内容が良くなりつつある。一番上にいるのは気分がいい」と、気持ちも乗ってきていた[3]。前日5位に後退した河野が70で再浮上、尾崎将に並んだ。スコアが伸びない状況で、1打差に鷹巣南雄金井清一、2打差に安田春雄、尾崎健、山本らがつけ、69をマークした青木功が4打差まで迫ってくる大混戦になった[3]。サバイバル戦となった最終日は最終18番パー5まで勝敗に行方は混沌としたが、尾崎将と河野が前半からボギーを連発して脱落[3]。16番で40センチにつけるバーディーで抜け出した山本が通算2アンダー、金井と鷹巣が通算1アンダーで最終ホールを迎えた[3]。金井が10メートルに2オンするが、イーグルを狙ったパットが1mオーバーし、3パットのパーに終わる。同組の山本はパーに収めて最終組の鷹巣を待ったが、3オンを狙った鷹巣が林に打ち込み、山本の逆転優勝が決まった[3]。第1日の首位スコアと優勝スコアが同じ2アンダーと、戦前の予想通りロースコアでの戦いになった[3]

1981年には僅か50万円ほどの差でランク31位のシード落ちはあったが、1982年にはすぐに復帰し安定した力を示し続けた。流れるようなスイングと長打力、ショート・ゲームにも定評あったが、40歳を迎えた1991年あたりから総合力の低下が見られるようになった。1993年日本プロマッチプレー湯原信光横島由一、重信秀人、高橋勝成を次々に退け、決勝で鈴木弘一を3&2で破って優勝。山本は「まるでプロ初優勝のような気分」になったが、それが1989年の関西オープン以来4年ぶりのツアー13勝目であった。

2001年にはシニア入りし、アメリカシニアツアーのライセンスを取得して本場米国のシニアにチャレンジ、米シニア予選会14位の準シード権であったために出場の機会に恵まれなかったが、貴重な体験となった[4]2002年はレギュラーとシニア両ツアーに参戦し、レギュラーの全日空オープンでは3日目まで5位につける健闘(13位)、18試合に出場して賞金ランク114位であった[4]。本格参戦のシニアはツアー競技全6試合を含め7試合に出場して賞金ランク8位に入り、後援競技の沖縄シニアでシニア初勝利を飾った[4]2003年もレギュラーとシニア両ツアーに参戦し、レギュラーの東建ホームメイトマンダムルシードよみうりで14位タイに入り、21試合に出場して賞金ランク100位であった[5]。シニアはツアー競技全6試合を含め10試合に出場してキャッスルヒル日本プロシニアで3位、その他4試合でもベスト10に入り賞金ランク5位としたがツアー初優勝はならなかった[5]

2004年は予選落ちこそ無かったが、ベスト10入りがファンケルシニアの8位タイ1試合だけで、賞金ランクも23位(前年6位)と不本意なシーズンに終わった[6]。復活が期待された2005年はオーベルストシニア、アルデプロカップ、PPTリボーネストの3試合で優勝争いをするなど健闘して賞金ランクを12位とし、レギュラーでは14試合に出場してサントリーオープンの51位タイがベストであった[7]

2006年はシニアツアー全6試合に出場し、鬼ノ城シニアの7位タイがベストであったが、特別協力競技のHTBシニアクラシックで2位に入っている[8]2007年はファンケルクラシック4位、鬼ノ城シニア5位など全8試合に出場して予選落ちは無かったほか、特別協力競技のヨネックスシニアオープン沖縄では渡辺司とのプレーオフを制して、5年ぶりのシニア競技2勝目を挙げた[9]2008年にはシニアツアー全試合に出場するが、鬼ノ城シニア7位タイ、日本シニアオープン12位タイ、富士フイルム選手権19位タイなどで賞金ランク32位に終り、2002年から続けていた賞金ランクでのシード権を守れなかった[10]2009年は2年連続シニアツアー全試合出場で賞金ランク47位という結果となり、シニア10シーズン目に入る2010年は生涯獲得賞金ランク11位~20位以内の資格で参戦[11]

シニア10年目の同年は9試合に出場して賞金ランク41位と3年連続で賞金ランクでのシード権が取れず[12]、還暦を迎えた2011年は全試合に出場して予選落ちが3試合、コマツオープンの9位タイがベストで賞金ランク40位という結果に終わる[13]2012年手首痛などに悩まされながらもシニア全8試合に出場し、ISPSハンダ灼熱6位、日本シニアオープン17位があったが、日本プロシニアで予選落ちするなど目立った成績は残せずに賞金ランクも37位であった[14]2013年もツアー11試合に出場し、8月のISPSハンダ秋晴れ14位タイが最高となった[15]2014年も生涯獲得賞金20位以内(17位)の資格で出場を続け、ハンチング姿で切れの良いプレースタイルは変わらなかったが、賞金ランク49位と不本意な結果に終わった[16]2015年にはシニアでもベテランの域になってきたが、KYORAKUで久々のトップ10となる9位と健闘[17]

主な優勝

レギュラー
シニア
  • 2002年 - 沖縄シニアオープン
  • 2007年 - ヨネックスシニアオープン沖縄

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t あの頃ボクは若かった 昭和の履歴書 vol.25 -山本善隆-
  2. ^ “Open to Sugimoto”. The Age: p. 28. (1973年3月19日). https://news.google.com/newspapers?id=H8kQAAAAIBAJ&sjid=4ZADAAAAIBAJ&pg=1434%2C4591038 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 第48回日本プロゴルフ選手権(1980年)山本善隆が初日本一で通算10勝の区切り
  4. ^ a b c 2003年シニアプロフィール
  5. ^ a b 2004年シニアプロフィール
  6. ^ 2005年シニアプロフィール
  7. ^ 2006年シニアプロフィール
  8. ^ 2007年シニアプロフィール
  9. ^ 2008年シニアプロフィール
  10. ^ 2009年シニアプロフィール
  11. ^ 2010年シニアプロフィール
  12. ^ 2011年シニアプロフィール
  13. ^ 2012年シニアプロフィール
  14. ^ 2013年シニアプロフィール
  15. ^ 2014年シニアプロフィール
  16. ^ 2015年シニアプロフィール
  17. ^ 2016年シニアプロフィール
  18. ^ “Yamamoto triumphs”. New Nation: p. 17. (1975年12月15日). https://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Article/newnation19751215-1.2.34.2 2021年2月6日閲覧。 

外部リンク

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