山中 毅(やまなか つよし、1939年1月18日 - 2017年2月10日)は、石川県輪島市生まれの競泳選手。1956年メルボルンオリンピックの400m自由形・1500m自由形、1960年ローマオリンピックの400m自由形・800mフリーリレーで4つの銀メダルを獲得した。
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国籍 | 日本 | ||||||||||||||
泳法 | 自由形 | ||||||||||||||
生年月日 | 1939年1月18日 | ||||||||||||||
生誕地 | 石川県輪島市 | ||||||||||||||
没年月日 | 2017年2月10日(78歳没) | ||||||||||||||
死没地 | 東京都練馬区 | ||||||||||||||
身長 | 171cm | ||||||||||||||
体重 | 75kg | ||||||||||||||
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人物
石川県立輪島高等学校在学中の1956年メルボルンオリンピックに出場。自由形400mと1500mの2種目では、オーストラリアのマレー・ローズに次ぐ2位で銀メダルを獲得した[1][2]。
早稲田大学進学後の1959年、自由形200m、400mで世界新記録を作った[2]。
1960年ローマオリンピックでも、自由形400mでローズに敗れ銀メダルを獲得した[2]。
早稲田大学卒業後、南カリフォルニア大学に留学[3]。1961年には、2ヶ月間に自由形200mの世界新記録を3度更新するなど、同じ大学に留学してきたローズや(ジョン・コンラッズ)とともに南カリフォルニア大学の黄金時代を築いた。1962年にコンラッズと南米に招待され帰国の際、搭乗予定だったヴァリグ・ブラジル航空810便がペルーで墜落したが、山中らは乗り遅れたため難を逃れた。1966年の全日空羽田沖墜落事故、全日空松山沖墜落事故でも直前に友人と会い、搭乗をキャンセルして助かっている[4]。
1964年の東京オリンピックにも出場し、400m自由形で6位入賞している。
3度のオリンピックで延べ7種目に出場し、4個の銀メダルを含めてすべて入賞した。
帰国後は大洋漁業(現・マルハニチロ)に就職した。またイトマンスイミングスクールの取締役も務めている。
山中の母親は海女で、出産の数日前まで海に潜っていた。そのためか、「山中は生まれる前から泳いでいる」の逸話が残っている。
脚注
関連項目
外部リンク
- 山中毅 - Olympedia (英語)
- - Sports-Reference.com (Olympics) のアーカイブ (英語)
- 山中毅 - 国際水泳殿堂 (英語)
- 石本選手世界新記録 -全日本水上 神宮-(昭和32年8月23日公開) - 中日ニュース187号(動画)・中日映画社
記録 | ||
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先代 (ジョン・コンラッズ) | 男子400m自由形 世界記録保持者(長水路) 1959年7月26日 – 1960年2月23日 | 次代 (ジョン・コンラッズ) |
先代 (ジョン・コンラッズ) | 男子200m自由形 世界記録保持者(長水路) 1958年8月22日 – 1959年1月16日 | 次代 (ジョン・コンラッズ) |
先代 (ジョン・コンラッズ) | 男子200m自由形 世界記録保持者(長水路) 1959年7月26日 – 1962年8月11日 | 次代 ドン・ショランダー |