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寺尾 亨(てらお とおる、1859年2月1日(安政5年12月19日)- 1925年(大正14年)9月15日)は、明治・大正期の法学者・アジア主義者。
来歴・人物
福岡藩士・寺尾喜平次の次男として生まれる。藩校修猷館に学んだ後、1876年(明治9年)7月、司法省法学校に入学し、ボアソナードに刑法を学ぶ。のちに寺尾の養女となる東山千栄子の父の渡辺暢は、法学校の同窓であり、寺尾の妹と結婚している。
1884年(明治17年)7月に卒業後、判事を経て、1891年(明治24年)9月に東京帝国大学教授となるが、直後に欧州に留学し、フランスにて国際法に転向する。1895年(明治28年)9月の帰国後に、東京帝国大学に国際法・国際私法の教授として復職する。翌年には外務省参事官を兼務した。1899年(明治32年)3月、法学博士を授与される。
1903年(明治36年)6月には、有名な七博士意見書において、ロシアとの早期開戦を唱えた。早くからアジア主義を唱えて、孫文やラース・ビハリ・ボースなどの支援にあたる。特に孫文が辛亥革命を起こした際には、帝国大学教授の職を捨てて現地に飛んで孫文の補佐にあたり、事敗れて孫文が日本に亡命した後もこれを支援した。
脚注
関連事項
- 戸水寛人・富井政章・小野塚喜平次・高橋作衛・金井延・中村進午 - 寺尾以外の「東大七博士」(ただし中村のみ学習院教授)。
- 宇野浩二の小説『(出世五人男)』には寺尾一家をモデルにしたと思われる描写がある。