安田 優(やすだ ゆたか、1912年(明治45年)2月1日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。陸軍砲工学校学生。二・二六事件に参加、他の将校らと内大臣斎藤實、教育総監渡辺錠太郎を相次いで襲撃した。最終階級は砲兵少尉。
略歴
- 熊本県天草郡出身。
- 旧制・熊本県立済々黌中学校(熊本県立済々黌高等学校)を経て、陸軍士官学校に入学。
- この頃の区隊長に、後に二・二六事件で同志となる村中孝次が、また級友に(中島莞爾)がいた。
- 1934年(昭和9年)6月 - 陸軍士官学校を卒業(46期)。同期に、堀栄三・畑中健二・益田兼利らがいる。野砲兵第七連隊五中隊附。
- 1934年(昭和9年)8月 - 満洲に出征、10月に陸軍砲兵少尉任官。
- 1935年(昭和10年)12月 - 陸軍砲工学校に入学。この頃、野中四郎、安藤輝三らの知遇を得る。
- 1936年(昭和11年)2月 - 二・二六事件 に参加、内大臣斎藤實、教育総監渡辺錠太郎を殺害、逮捕される。事件から3日後の2月29日付で正八位返上を命じられる[1]。
- 1936年(昭和11年)7月 - 叛乱罪(群衆指揮等)で死刑判決。12日、東京陸軍刑務所で死刑執行。25歳。
二・二六事件
安田のほか、中尉坂井直、少尉高橋太郎、少尉麦屋清済が率いる150人の襲撃部隊が、東京府東京市四谷区仲町三丁目(現東京都新宿区若葉一丁目)の内大臣斎藤実の私邸を急襲。斎藤を機関銃で殺害した。
このあと、 安田は高橋少尉とともに30人を連れ、上荻窪の渡辺錠太郎教育総監私邸へ向かい、 渡辺を射殺。後の安田の供述によれば、本来、渡辺に関しては殺害する意図は無く、陸軍大臣官邸まで連行するのが目的であったという。なお、このとき殺害現場に居合わせた渡辺の次女渡辺和子(学校法人ノートルダム清心学園の理事長)と、安田の弟・善三郎とは、現在に至るまで交流があるという。
辞世(処刑5分前の書) 「あをぐもの涯に/我がつとめ 今は終わりぬ 安らかに 我れかへりなむ 武夫の道」
演じた俳優
- 映画
脚注
- ^ 官報 1936年3月3日 二八頁
参考文献
- (社会運動史研究会)『二・二六事件青年将校安田優と兄・薫の遺稿』河出文庫、2013年。ISBN (9784886837479)。
- 二・二六事件青年将校安田優と兄・薫の遺稿(イザ!)
関連項目
旧制・熊本県立済々黌中学校は、事件に関わった青年将校を他にも輩出している。
- 林正義 - 海軍中尉。五・一五事件に連座し、内乱予備罪で有罪。
- 河野壽 - 陸軍航空大尉。二・二六事件に参加、湯河原の別荘に滞在中の牧野伸顕を襲撃、事件後自決。
- 清原康平 - 陸軍少尉。二・二六事件に参加、反逆罪(群衆指揮など)で無期禁固刑(のち恩赦)。