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女子学院中学校・高等学校

女子学院中学校・高等学校(じょしがくいんちゅうがっこう・こうとうがっこう、英語: Presbyteriangirlsschool)は、東京都千代田区一番町に所在する私立女子中学校高等学校である。

女子学院中学校・高等学校
北緯35度41分16.4秒 東経139度44分18.2秒 / 北緯35.687889度 東経139.738389度 / 35.687889; 139.738389座標: 北緯35度41分16.4秒 東経139度44分18.2秒 / 北緯35.687889度 東経139.738389度 / 35.687889; 139.738389
国公私立の別 私立学校
設置者 (学校法人女子学院)
設立年月日 1870年
創立者 ジュリア・カロザース
共学・別学 女子校
中高一貫教育 完全一貫制
課程 (全日制課程)
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科
学期 2学期制
学校コード C113310100082 (中学校)
D113310100151 (高等学校)
高校コード 13508K
所在地 102-0082
外部リンク 女子学院 中学校・高等学校
(ウィキポータル 教育)
ウィキプロジェクト 学校
(テンプレートを表示)

高等学校においては生徒を募集しない(完全中高一貫校)[1]

キリスト教プロテスタントカルヴァン派長老派教会ミッションスクール明治初期に宣教師や日本人キリスト教徒によって建てられた女子中等教育校の一つで[2]1870年明治3年)設立の最古の学校である。

概要

女子学院はいくつかの学校から統合してできた学校である。1870年設立のA六番女学校1874年設立のB六番女学校1876年設立の櫻井女学校が改称、統合し、1890年に「女子学院」として発足した。

また、同年、現在地に校舎を新築移転し、私立の高等女学校としてでなく、国による制約を受けない各種学校として発足した[2]。各種学校では高等教育機関への入学資格が得られないため、女子学院は、5年間の「本科」の上に「高等科」を設置し、独自に高等教育を行った[2]。なお、その高等科が母体となって、東京女子大学が設立された経緯がある。初代院長は矢嶋楫子

校名の一部に「女子学院」を冠する学校は多くあるが、校名がそれである唯一の学校である。

制服の着用義務はなく、自由な校風とされる。創立以来の朝の礼拝を特色にもつ。

プロテスタントミッションスクールであり、週5日制を踏襲している。そのため、2月1日が日曜日である年では、首都圏中学受験の受験者が大きく増減する(サンデーショック)要因の代表的な学校の一つである。

卒業生の4割ほどは東京大学をはじめとする難関国立大学に進学する。進路は多岐に渡っている。

沿革

1870年明治3年)、ジュリア・カロザースC・カロザースの妻)により、築地居留地六番にA六番女学校が設立された。その後、原胤昭に引き継がれて原女学校となった。

1874年(明治7年)、ミス・ヤングマンとミス・パークが同じ築地居留地六番地にB六番女学校を設立。その後、居留地四十二番に移転して新栄女学校となった。

1876年(明治9年)、櫻井ちか麹町櫻井女学校を設立。櫻井が夫の函館赴任に伴い北海道に去ると、メアリー・トゥルーが経営を引き受け、矢嶋楫子が校主(現在の校長と理事長を兼ねた職)代理となり同校を支えた。

1878年(明治11年)に原女学校と新栄女学校が合併。さらに1890年(明治23年)に櫻井女学校と合併して校名を「女子学院」に改め、現在地に校舎を新築移転、矢嶋楫子が初代院長となった。

 
女子学院初代院長矢島楫子

創立記念日の10月24日は、櫻井ちかが女学校設立の許可を東京府から得た日である。

略歴

  • 1870年(明治3年) - A六番女学校設立。
  • 1874年(明治7年) - B六番女学校設立。
  • 1876年(明治9年) - A六番女学校、B六番女学校がそれぞれ原女学校、新栄女学校に改称。櫻井女学校設立。
  • 1878年(明治11年) - 原女学校と新栄女学校が合併(校名は新栄女学校)。
  • 1890年(明治23年) - 櫻井女学校と合併し「女子学院」に改称。現在地に移転。
  • 1920年(大正9年) - 高等科(現在の大学教育に相当)を東京女子大学に統合。以後、中高一貫校として今日に至る。

校歌

歌詞は5番まで存在する。作詞者の別所梅之助は明治末から大正期にかけて女子学院で国語を教えていた[3]

制服

女子学院には、毎日着用義務のあるものとしての「制服」があったが、1972年昭和47年)に廃止された。この制服は、冬服は紺色の上下共布セーラー服で、胸のスカーフのリングに「JG」の飾り文字が入り、袖に、アメリカ合衆国の国章からとった「」のロゴが入ったものだった。夏服は上は身頃が白で、ロゴが紺色となり、冬服とネガポジが逆転する形となっていた。胸には、緑色の横長三角形で中に「JG」の文字を入れたペナントのような型の校章バッジをつけ、スカーフの色は赤が中学、紺が高校で、中学と高校を見分けられるようになっていた(このほかの学年章のようなものは無かった)。ただし儀式のときは白のスカーフを着用する規定であった。

生徒に愛着を持って着用されていた女子学院の「制服」であったが、当時、学校の経営陣の間にあった内紛で「自由化派」が勝利し、それを象徴する指導方針の変更として、上から「制服廃止」が通告され、女子学院の生徒たちに制服の着用義務がなくなった。

また、この変化の背景には1969年(昭和44年)11月に一部生徒によってなされたバリケード封鎖と全学集会(大島孝一院長と教師参加)がある。そこで出された五項目、中でも (1) 「習う」から「学ぶ」への転換(主体性の重視) (4) 「相対評価」から「絶対評価」へ(教育における個性の尊重)、がある。

この提起によって当時の女子学院に被せられた名門受験校という現実を見直し、元々の女子学院における歴史と精神の想起がなされた(「装飾のために学ぶのではなく、人として起つべき道を知るために勉強するのだ」三谷民子)。

この結果、1971年(昭和46年)6月、大島孝一院長から父兄宛文書で、「制度」としての服装規定の廃止が表明された。そこで大島院長は、「いったい服装は個性をもって選びとるものであり、機能に応じて用い方を工夫すべきものであって」「そのことがひとつの教育であると考えます」と、自己によって選びとることの重視であることを説明した。

だが、この上意下達の方針変更にも拘らず、多くの生徒の心情の中でこのセーラー服への愛着がやむことはなく、これを自主的に着用する気風が生徒の間に連綿と続いている。

今でも指定洋服店が女子学院の「制服」とされていた時と同じ伝統の型のセーラー服を製造・販売している。これは、女子学院中学の正規合格者ないし現役の生徒であることの証明がないと購入できず、事実上の学校の「準制服」という地位にある。

著名な出身者

政治・経済

学者・知識人

文芸・芸術

芸能

マスメディア

その他

参考文献

  • 猪熊建夫「名門高校の校風と人脈(26) 女子学院高校(私立・東京都千代田区)」『エコノミスト』第91巻第1号、毎日新聞社、2013年1月8日、74-75頁。 
  • 『女子学院の歴史』 編集 女子学院史編集委員会 発行 学校法人女子学院 1985年10月24日
  • 明治日本における女子教育とキリスト教 教育の試みの一例 (PDF) (山田美穂子)

関連人物

関連項目

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 女子学院中学校の学校情報 - 中学受験パスナビ(旺文社)の冒頭に「※系列高校での募集はない。」と記されている。
  2. ^ a b c 日本で「名門女子校」が生まれた理由 | プレジデントオンライン 2015.4.19
  3. ^ 校歌 | 女子学院 中学校・高等学校 公式サイト
  4. ^ 竹中 繁とは - コトバンク

外部リンク

  • 女子学院中学校・高等学校
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