奥村 竹之助(おくむら たけのすけ、1902年 - 1960年4月1日)は、日本の元ラグビー選手。主なポジションは(セカンドロー (LO))。
来歴
神戸一中(現:兵庫県立神戸高等学校)、第三高等学校を経て京都帝国大学へと進む。京大のラグビー部では主将を務め、本場、イギリスに倣い、『3・2・3』の8人制フォワードシステム[1]を取り入れるなどした成果が現れ、東西学生ラグビーフットボール対抗王座決定戦で優勝に貢献。また、京大在籍時代に高等文官試験にも合格したが、1926年に卒業後は三菱商事に入社[2]。三菱商事時代も、イギリス勤務時代は現地のクラブでプレーするなどして活動した他、(谷村順蔵)、(吉田義人)とともに、『(全三菱ラグビー倶楽部)』の結成に尽力した。その後、当人を含めた3名の頭文字を取った『T.Y.O.杯関東全三菱大会』が1956年より開催されるようになった[3]。
第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部の指示により設けられた、外国為替委員会の初代委員長である木内信胤からの誘いを受け、外国為替管理委員となった[4]。
その傍ら、西部ラグビー蹴球協会(後の関西ラグビーフットボール協会)理事長、日本ラグビーフットボール協会専務理事等を歴任した他、1952年、ラグビー日本代表の監督に就任。同年10月に行われた、第二次世界大戦後における同チーム初のテストマッチとなったオックスフォード大学来日試合戦等で指揮を執った。また、レフェリーとしても活動するなど、ラグビーにおける活動も活発であった[2]。
1960年3月31日、当人も建立に尽力した秩父宮ラグビー場のクラブハウス内で突然倒れ、翌4月1日、脳溢血により死去した[2]。