» www.Giftbox.Az - Bir birindən gözəl hədiyyə satışı
ウィキペディアランダム
毎日カテゴリ
共有: WhatsappFacebookTwitterVK

大賀弥四郎

大賀 弥四郎(おおが やしろう)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武士徳川家康の嫡男・松平信康の家臣だったが、謀反を計画したために処刑された。正しくは大岡氏大岡 弥四郎)であるとする見解が有力である[5][3]

 
大賀 弥四郎
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正3年4月4日1575年5月23日)?[注釈 1][2]
別名 大岡弥四郎
主君 徳川家康信康
氏族 大岡氏?[3]
中根正照の娘[4]
(テンプレートを表示)

出自

名字について、寛永3年(1626年)成立の『三河物語』を始め『朝野旧聞裒藁』『徳川実紀』は彼の名を大賀弥四郎とするが、元禄年間成立の『(岡崎東泉記)』や『(伝馬町旧記録)』といった岡崎地方の史料では大岡弥四郎としている。大賀氏は松平氏の家臣として名が見られる一族ではあるが、大岡氏は弥四郎と同様に松平信康に仕えた人物として(大岡正成)・(義勝)を出しており、そのため大岡弥四郎とすべきものを後世の誤謬ないし作為によって大賀弥四郎と伝えられたとする見解がある[5][6][7]

『三河物語』は弥四郎は譜代の「御中間」であったとするが、その出自を松平氏譜代の家臣筋である大岡氏とすれば『(烈祖成績)』が「奴隷」と表現するような下賤の出身であったことを意味しない。この事は後述の事件を矮小化しようとする後世の操作によって、出自を低く見積もられたとみられている[8]

人物

『(岡崎領主古記)』によれば、大岡弥四郎は松平新右衛門・江戸右衛門七とともに岡崎城主松平信康の下で町奉行を務めていたといい、諸書とも一致する。それ以前の経歴について『三河物語』は先述のとおり中間だったとするが、『岡崎東泉記』は弥四郎が徳川家康の馬丁を務めていた時の逸話として、矢作川が氾濫して河水が濁り水深も覚束なくなった際、弥四郎が真っ先に瀬踏みを敢行したため、これを賞されて200石取りとなったとしている。その後渥美郡20余郷の代官に任じられ、また中根正照の娘を妻に娶ることになった[3]。『徳川実紀』によれば民政や算術に長けたために抜擢を受け、浜松城と岡崎城を往来して家康・信康双方に仕えたという。また家康が老臣らの諫めを聞かずに鷹狩りに熱中した際、弥四郎のみは家康に扈従したのだという[7]

天正3年(1575年)、松平新右衛門らとともに武田勝頼に内通して武田軍を岡崎へ引き入れようとする謀反を企てたが、事前に計画が露見したため不発に終わった。弥四郎は捕らえられて岡崎及び浜松城下において引き回しの上、鋸挽きの刑に処され[注釈 2]、弥四郎の妻子はとなった(後述)[9]

大賀弥四郎事件

『伝馬町旧記録』によれば、天正2年(1574年)頃までに弥四郎や松平新右衛門らは一揆契約を交わし、武田勝頼に内通してその侵攻を幇助しようとしていたという。その与党には信康家老鳥居氏陪臣・小谷甚左衛門[注釈 3]、他に倉地平左衛門らがいた。『三河物語』はその計画について以下のように記している。弥四郎は家康が到来したと偽って岡崎城に呼びかけて開門させる。その隙に武田軍は東三河から岡崎へ侵攻して城を占領し、城主の信康を自害せしめる。また岡崎在留の諸士の妻子を人質に取って徳川家臣団を服属させ、進退窮まった家康やその家臣らは所領を落ち延びるだろうから、これを待ち伏せて討ち取る。以上の内容の書状を勝頼に送り、その同意を取り付けたとしている[9]。一方で『岡崎東泉記』によれば、武田氏が遣わした歩き巫女が岡崎城中にまで浸透し、信康生母の築山殿にまで達していた。築山殿は信康を国主とするという武田氏の提案に乗じ、謀反に参画していたのだという[11]

山田重英は岡崎家老鳥居氏の陪臣だったが、同輩の小谷氏に誘われて弥四郎の一党に加わっていた。しかし重英は後に翻意して謀反の事実を岡崎城の信康に通報した。信康は当初信用しなかったが、重英の提案で家来に密談を間諜させたため事は露見した。また『伝馬町旧記録』によれば家康は事前に一揆の風聞を掴んでおり、信濃国へ出入りする塩商人に申し付けて事情を探らせていたのだという[12]。なお『徳川実紀』は別に以下の話を載せる。家康・信康父子から異例の寵愛を受けていた弥四郎は増長し、岡崎城家老たちすら異見できないほどの権威を着ていた。ある時近藤壱岐という譜代の武士が加増となった際、弥四郎は自分が執り成しをしたためであると放言したため、近藤は怒って加増を辞去することを申し出た。この騒動を知った家康は近藤から弥四郎の専横を知り、弥四郎の罪を問うて家財を没収した。その中に武田勝頼に内通する書状が発見されたのだという[7]

弥四郎と妻子は前述のように処刑された。同輩の松平新右衛門は大樹寺において自害し、小谷甚左衛門は討ち取られ、倉地平左衛門は甲斐国へと逃れた。また事件には不関与だった弥四郎同輩の江戸右衛門七も責任を問われて詰め腹を切らされた。一方で山田重英は返り忠を賞されて加増を受けたという[13][7]

当時の徳川領情勢として武田氏の軍事的優勢が指摘されており、『岡崎東泉記』にあるように松平氏譜代の岡崎家臣団が信康を三河の新国主として武田氏に寝返ろうとする可能性は十分に考えうる。この事件は家中の動揺を抑えるため、大賀弥四郎一党が起こした騒動という小事件として処理されたが、後年武田氏に対する軍事的優勢に転じた事によりようやく信康と築山殿の処分という形((松平信康#信康自刃事件について))で岡崎処分が完遂されたという見解もある[13]。また『三河物語』が述べるように、同年5月長篠の戦いは、大賀弥四郎らの内通によって武田軍が侵攻の機を得たものとする説もある[5]

関連作品

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 『岡崎東泉記』は弥四郎が没する事件のあった月を10月の事としている[1]
  2. ^ 岡崎郊外で土に埋められ、その首を通行人に竹鋸で引かれたのだという[7]
  3. ^ 事件に参画した小谷氏について、『三河物語』等は名を甚左衛門とするが、『岡崎東泉記』は甚右衛門の子で九郎左衛門としている[10]

出典

  1. ^ 『新編岡崎市史』, p. 931.
  2. ^ 『新編岡崎市史』, p. 934.
  3. ^ a b c 『新編岡崎市史』, pp. 927–928.
  4. ^ 『新編岡崎市史』, p. 928.
  5. ^ a b c 柴 2010, p. [].
  6. ^ 『新編岡崎市史』, pp. 921–928.
  7. ^ a b c d e 『徳川実紀』, pp. 154–156.
  8. ^ 『新編岡崎市史』, pp. 928–934.
  9. ^ a b 『新編岡崎市史』, pp. 929–930.
  10. ^ 『新編岡崎市史』, pp. 929–932.
  11. ^ 『新編岡崎市史』, pp. 930–932.
  12. ^ 『新編岡崎市史』, pp. 929–933.
  13. ^ a b 『新編岡崎市史』, pp. 933–935.
  14. ^ “【第9弾】出演者「家康をめぐる人たち」を発表! 大河ドラマ どうする家康|NHK_PR|NHKオンライン”. NHKオンライン. 2023年2月10日閲覧。

参考文献

  • 柴裕之「長篠合戦再考」『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院〈戦国史研究叢書〉、2010年。ISBN (978-4-87294-884-4)。 
  • 新編岡崎市史編集委員会 編『新編 岡崎市史』 2巻《中世》、新編岡崎市史編さん委員会、1989年。 
  • 黒板勝美 編『徳川實紀』 第1篇、吉川弘文館〈新訂増補 國史大系〉、2007年。ISBN (978-4-642-04040-2)。 
ウィキペディア、ウィキ、本、library、論文、読んだ、ダウンロード、自由、無料ダウンロード、mp3、video、mp4、3gp、 jpg、jpeg、gif、png、画像、音楽、歌、映画、本、ゲーム、ゲーム。