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大炊御門 家孝(おおいのみかど いえたか)は、江戸時代中期の公卿。内大臣・大炊御門経秀の子。官位は従一位・右大臣。大炊御門家24代当主。桃園天皇(116代)・後桜町天皇(117代)・後桃園天皇(118代)・光格天皇(119代)の四朝に亘って仕えた。
経歴
寛延元年(1748年)に叙爵してから、清華家当主として速いスピードで昇進し、左近衛権少将・右近衛権中将をへて、宝暦6年(1756年)に従三位に達し公卿に列する。その後も権中納言・権大納言・踏歌節会外弁を歴任し、天明元年(1781年)より右近衛大将・右馬寮御監となるも、天明2年(1782年)からは右近衛大将を辞職して、皇太后近衛維子の皇太后宮権大夫に転じた。しかし翌年には維子皇太后が崩御したため、職を辞している。天明7年(1787年)に内大臣となり、天明8年(1788年)には踏歌節会内弁を務めた。寛政元年(1789年)に内大臣を辞職し、従一位を授与された。寛政4年(1793年)には再度内大臣に任じられたが、すぐに辞職している。寛政8年(1796年)には右大臣となったが、同年のうちに辞職した。