大河内 輝耕(おおこうち きこう、1880年(明治13年)11月18日[1] - 1955年(昭和30年)5月2日[2])は、上野国高崎藩最後の藩主大河内輝声の長男で、貴族院議員。子爵。妻は徳川慶喜の八女の国子。
経歴
1882年(明治15年)父の死により家督を相続し、1884年(明治17年)7月8日に子爵を叙爵した[1][3]。1901年(明治34年)7月に学習院高等科を卒業して、東京帝国大学法科大学に入り、1905年(明治38年)に卒業した。同年11月、文官高等試験に合格し、大蔵省に入り、主計局に配属された。その後、大蔵書記官、主計局主計課長、専売局主事、大蔵参事官、専売局理事、東京地方専売局長などを歴任した[4]。
1924年(大正13年)4月5日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選[5][6]。1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在職した[2]。第二次世界大戦中は、翼賛選挙における選挙干渉の危険性を指摘し[7]、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲の翌日、および14日に開かれた帝国議会では「人貴キカ物貴キカ」と人命を優先するよう政府を追及した[8]。
国会質問
●【1945年(昭和20年)3月11日、午前10時9分からの貴族院本会議】
政府のやることが全て後手に回っている。
例えば防空の問題。疎開の必要性を我々は主張していたが政府は一向に聞かない。
それどころか「疎開する者は非国民だ」とまで言いだした。
ぐずぐずしているうちに、昨日の被害、死傷者が出た。
●【同年 3月14日、貴族院本会議】(大達茂雄内務大臣が3月10日の東京大空襲の被害状況を淡々と報告したのに対して)
私の質問は、「人貴きか、物貴きか」と、こういう質問なんであります。
防空施設を整えるという話もあるが、私はこうなっては間に合わないと思う。大都会が焦土化するのは時間の問題だと思います。
次は東京が全部やられるかも知れない。その場合に、人を助けるか物を助けるか、どっちを助けるかを伺いたい。
私は、人を助ける方がよいと思う。
消防などは二の次でよいから、身をもって逃げるということが一番よいと思う。
内務大臣から隣組長などに、「火は消さなくてもよいから逃げろ」と言っていただきたい。
(これに対し、内務大臣は「焼夷弾に対して市民が果敢に健闘いたしております」「初めから逃げてしまうということは、これはどうかと思うのであります」と答弁。)
栄典
- 位階
- 勲章等
家族
妻の国子(1882-1942)は徳川慶喜と側室の八女として明治15年に静岡の徳川邸で生まれたが、学齢期に徳川家達家に預けられて育った。妹たちとともに大正天皇の妃候補に選ばれたが背が低いことから選から外れ、明治34年に輝耕に嫁いだ。佐々木信綱の短歌会「竹柏会」で川田順と出会い、明治39年より不倫関係となったが、明治44年に川田が結婚し、翌年国子は夫を追って渡英、約20年後、国子側から川田に連絡があり、交流が復活、その後、夫や息子(養子)夫婦公認の交際が続いたが、56歳で脳溢血に倒れ、5年ほど寝たきりとなり死去した[12]。川田はのちに、川田と国子の不倫に輝耕が寛容であったのには深い理由があり、それが公表できたら二人の罪も軽減されるだろうが明らかにはできない、と含みのある書き方をしている[13]。。
出典
- ^ a b 『人事興信録 第5版』を78頁。
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』39頁。
- ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
- ^ 『人事興信録 第7版』を82頁。
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』39頁。
- ^ 『官報』第3484号、大正13年4月8日。
- ^ 清永聡『気骨の判決 東條英機と闘った裁判官』新潮新書、2008年。
- ^ . TOKYO Web (東京新聞). (2015年3月4日). オリジナルの2015年3月15日時点におけるアーカイブ。2019年8月16日閲覧。
- ^ 『官報』第1923号「叙任及辞令」1918年12月29日。
- ^ 『官報』第21号「叙任及辞令」1927年1月25日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ 『葵の女―川田順自叙伝』講談社 (1959/1/1)p69
- ^ 『葵の女―川田順自叙伝』p122
- ^ 大河内輝耕『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
参考文献
- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
- 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。