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壺井重治

壷井 重治(つぼい しげはる[1]1921年 - 1945年5月4日[1]) は、日本の元アマチュア野球選手、大日本帝国陸軍軍人。早稲田大学野球部捕手として活躍した人物である。

壷井 重治
生誕 1921年
日本
死没 1945年5月4日(満24歳没)
日本 鹿児島近海洋上
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1943年 - 1945年
最終階級 陸軍少尉
(テンプレートを表示)

来歴・人物

八尾中学(現・大阪府立八尾高等学校)を経て、1941年早稲田大学に入学[2]小野欣助とは八尾中、早大の4年後輩に当たる。

1943年10月16日に行われた出陣学徒壮行早慶戦では控え捕手(正捕手は伴勇資)としてベンチ入りした。

その後、試合から5日後の学徒出陣に伴い、戦地に出征。二度と復学する事は適わず、1945年5月4日午前5時30分に特別攻撃隊(陸軍第66振武隊員)として、万世基地(鹿児島県[1][3]より特攻として出撃。程なく鹿児島近海で戦死した。享年24。出撃直前に家族や知人に宛てた遺書には「いよいよ時が参りました。5月早々を命日とご覚悟ください。必ず成功をと、一層決意を固めております。若輩の身に皇国の安危を背負い、光栄と感激に胸を躍らせつつ、一機一艦を屠るべく元気で出発いたします。写真の大きいのは黒枠用に願います。」とあった[4]。また辞世の句も遺しており、「若桜嵐の中に散りゆくも 再び咲かす 靖国の花 必殺と雄叫びしつつ 我は今 敵艦目指して花と散りゆく」とあった[4]。遺詠は朝日新聞西部版にて20年5月14日の記事(「征く心“五月晴”三十一文字に示す神鷲の出撃」)にも「ツ少尉」として取り上げられ、「・・・若櫻風の中に散り行くも再び咲かす靖國の花 必殺の雄叫びしつゝ我はいま敵艦目指して花と散り行く」と掲載された。出撃直前に、戦後に義姉となる女性と出会い、両親の事をよろしく頼むと伝えていたと言われている[5]。また実家のみならず、早大野球部の合宿所にも訪れ、後輩部員に向かって「俺は二度と還ってこない」と告げた話も残っている[5]

東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、小野と共に彼の名前が刻まれている[6]

没後の2008年夏、万世特攻平和祈念館(鹿児島県南さつま市)にて壷井の遺品が所蔵されている事が分かり、NHKニュースおはよう日本でも特集された(2008年9月18日放送。「今語られる最後の早慶戦」として特集コーナーで取り上げられた)[5]。遺品の中には、出陣学徒壮行早慶戦の直前(1943年9月末)に両親に送った手紙があり、「一度自分の野球姿を見てもらいたかったが、遂に機会はなかった。何より残念です」と記してあったという[5]

脚注

  1. ^ a b c 戦没野球選手慰霊(沢村栄治記念館のページ)
  2. ^ (TOKYO ROCKS!2013 早稲田大学主将・東條航のブログ。2013.03.12 沖縄キャンプ~まとめ~)
  3. ^ 振武隊編成表(第66振武隊)
  4. ^ a b 壷井重治遺書(沢村栄治記念館のページ)
  5. ^ a b c d 『1943年晩秋 最後の早慶戦』刊行―早稲田と慶応、初めての共同研究― :文化:教育×WASEDA ONLINE読売新聞、2008年12月10日特集記事
  6. ^ 戦没野球人モニュメント-モニュメントに刻まれた戦没野球人一覧(野球殿堂博物館のページ)

関連項目

参考文献

  • 『早稲田大学野球部 栄光の軌跡』/ベースボールマガジン社/1983年
  • 『早稲田大学野球部 百年史 上巻』/飛田忠順稲門倶楽部編/2002年
  • 『1943年晩秋 最後の早慶戦』/早稲田大学大学史資料センター著 、慶應義塾福澤研究センター編/教育評論社/2008年
  • 神山圭介著『英霊たちの応援歌:最後の早慶戦』(文藝春秋,2008年)(ISBN 4-16-735406-3)
  • 笠原和夫、松尾俊治著『最後の早慶戦 : 学徒出陣還らざる球友に捧げる』(ベースボール・マガジン社,2008年)(ISBN 978-4-583-10106-4)「学徒出陣最後の早慶戦:還らざる英霊に捧げる」(恒文社,1980年)の増訂
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