» www.Giftbox.Az - Bir birindən gözəl hədiyyə satışı
ウィキペディアランダム
毎日カテゴリ
共有: WhatsappFacebookTwitterVK

堺電気館

堺電気館(さかいでんきかん)は、かつて存在した日本の映画館である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13][14][15][16]。1899年(明治32年)10月、大阪府堺市宿院(現在の同府同市堺区大町東2丁)に寄席七尾亭(ななおてい)として開館、1915年(大正4年)には常設映画館電気館(でんきかん)となった[1][3]。1945年(昭和20年)7月10日の堺大空襲で全焼した[17]第二次世界大戦後、堺東駅西口に新築・移転した[10][12][13][14]。1961年(昭和36年)に閉館した[14][15]。同市内最古の映画館のひとつであった[1][2][3][16]

堺電気館
Sakai Denki-kwan
種類 事業場
市場情報 消滅
略称 電気館
本社所在地 日本
590-0028
大阪府堺市三国丘御幸通19番地
設立 1899年10月
業種 (サービス業)
事業内容 映画の興行
代表者 代表 本山敬二郎
支配人 峰久
主要株主 本山敬二郎
主要子会社 第二電気館(泉谷虎吉、1940年代まで)
金岡劇場(本山敬二郎)
関係する人物 泉谷虎吉
吉田禎二
新田安信
中村忠次郎
山品廉
特記事項:略歴
1899年10月 寄席七尾亭開館
1917年 電気館と改称・映画館化
1961年 閉館
(テンプレートを表示)

沿革

データ

概要

 
1926年(大正15年)10月14日公開の『刃傷』(主演市川百々之助、監督(森本登良夫))のチラシ(帝国キネマ演芸直営館、紀國座のもの)。

宿院境内の映画館

1899年(明治32年)10月、大阪府堺市宿院(現在の同府同市堺区大町東2丁)の宿院頓宮の境内に、寄席七尾亭として開館している[16]。当時の宿院頓宮は、第二次世界大戦後に再建された現在地(宿院町東2丁1番地6号)ではなく、現在の大町東2丁にあり、同館は宿院に隣接して立地し、すぐ近くに芝居小屋の卯之日座(戦後の(宿院劇場))や、寄席の旭席が存在した[16]。当時の宿院境内、宿院通り、あるいは(山之口筋)の交差するこのあたりは、参詣客や商店の客でにぎわっていた[2][3]阪堺電気軌道阪堺線宿院停留場もすでに存在し(1912年開業)、沿線の住民もこの地を訪れた。開館当時の同館は、剣舞詩吟の実演を上演するような空間であった[16]。同館の経営者は泉谷虎吉であった[16]

同館が映画館に業態を転換したのは1915年(大正4年)であり、電気館と改名して再開館した[1][2][3][16]。同年12月発行の『(キネマ・レコード)』には、同館の館名が掲載されている[1]。市内に存在したもう1つの映画館も、天神の名で知られる菅原神社(現在地・戎之町東2丁1番地38号)の境内にあり、戎座といった[1][2][3]。1925年(大正14年)に発行された『日本映画年鑑 大正十三・四年』には、堺電気館として掲載されており、同館の興行系統は帝国キネマ演芸であった[3]。同市内の映画館は、同館を含めてひきつづき3館であり、卯之日館は日活、戎座は東亜キネマの作品をそれぞれ上映していた[3]

1927年(昭和2年)に発行された『日本映画事業総覧 昭和二年版』によれば、同館の館主および経営者は泉谷虎吉、支配人は吉田禎二、興行系統はひきつづき帝国キネマ演芸であった[4]。当時の同館で上映された代表的な作品として、1926年(大正15年)7月1日公開の『劔難』(主演市川百々之助、監督(森本登良夫))と、マキノ・プロダクションおよび日活・松竹キネマとの4社競作であり、同年2月14日に第一篇が公開された『(孔雀の光)』(主演(尾上紋十郎)、監督(後藤秋声)、全4篇)を挙げている[4][19]。同書には、同年当時の同市内の映画館は、日活作品を上映する卯の日座(宿院、経営・吉村佐吉)、松竹キネマ作品を上映する戎座(花田口町、経営・(今井孝吉))のほか、東亜キネマおよびマキノ・プロダクション作品を上映する大和田倶楽部(並松町、経営・今井孝吉)が新たに加わって、同館を含めて合計4館が掲載されている[4]。したがって、4社競作の『孔雀の光』は、同市内の4館が同一原作の作品で競合したことになる[4][19]。同年10月20日には、関西活動写真業組合が発足し、同館経営者の泉谷虎吉は、幹事を務めた今井孝吉、戎座支配人の米田吟造、卯の日座館主の吉村佐吉、新たに開館した(太陽館)(北安井町)の富士松福松、大和川館(大和川町、のちの(堺劇場))の橋本專太郎とともに同組合に組合員として加盟した[6][20]。同館は、帝国キネマ演芸作品の上映館でありつづけたが、1931年(昭和6年)8月28日には帝キネ自体が崩壊し、改組されて新興キネマになっている。

1940年(昭和15年)前後の時期に、同館経営者の泉谷虎吉は、岸和田市にあった同名の電気館(のちの岸和田電気館、北町28番地)を手中に収め、第二電気館と改称させている[8][9]。1942年(昭和17年)には第二次世界大戦による戦時統制が敷かれ、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、すべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、同年発行の『映画年鑑 昭和十七年版』には、同館の興行系統については記載されていない[8]。同館はひきつづき館主・泉谷虎吉、支配人・吉田禎二という体制で経営が行われており、観客定員数は274名であった[8][9]。戦争末期の1945年(昭和20年)7月10日未明に行われた第6回大阪大空襲、いわゆる堺大空襲で宿院一帯は壊滅し、同館も全焼した[17]

戦後・移転と再開

同市中心部は空襲の爪痕が深かったが、1949年(昭和24年)前後には、南海電気鉄道高野線堺東駅西口、三国丘御幸通19番地(現在の堺区三国ヶ丘御幸通19番地)に木造二階建の映画館を新築、この地で営業を再開した[10][11][12][13][14]。この新しい場所での電気館の経営は、戦前の泉谷虎吉に代って本山敬二郎が行い、支配人には新田安信が就任した[10][11]。一方、戦前に同一経営であった岸和田市の第二電気館のほうも、関西映興を経営する岩崎治良(1900年 - 没年不詳)[21]に経営が代っており、両館の間に資本関係はなくなった[10][11]。同館の再開館当時の同市内の映画館は、戦前に東宝映画(現在の東宝)の直営館であったが当時は東宝および新東宝の二番館であった(堺東宝映画劇場)(北瓦町87番地、経営・正木孝之)、そして復興して大映の二番館となった太陽館(北安井町11番地、経営・興亜厚生)、同じく復興して松竹の二番館となった菅原館(出口町3番地、経営・小猿福松)、同じく復興して大和川館から改称した邦画混映館の堺劇場(七道東之町124番地、経営・興亞厚生)、と同館を含めて合計5館であった[10][11]。戦時中の10館[8][9]から半減してのスタートであった[10][11]。再開館当初の同館の興行系統は、セントラル映画社英語: CMPE, セントラル・フィルム・エキスチェンジとも)の独占配給するアメリカ映画であった[10][11]

1951年(昭和26年)12月27日にはセントラル映画社は解体されたため、興行系統は輸入映画(洋画)の混映館になった[12]。1953年(昭和28年)には支配人が中村忠次郎に変わっている[12]。1956年(昭和31年)に発行された『映画年鑑 1956 別冊 全国映画館総覧』によれば、支配人が山品巌に変わっており、同市内の映画館は同館を含めて14館を数え、わずか5年間で約3倍の数の映画館数となった[13]

その後、興行系統が松竹・大映・東映の混映館となり、同館を経営した本山敬二郎は、国鉄阪和線(現在の西日本旅客鉄道阪和線)の堺市駅の西側、北三国丘町8丁295番地に金岡劇場(観客定員数250名)を新たに開館、経営したが、本山は金岡劇場一本に絞り、1961年(昭和36年)には同館を閉館した[14][15]。同年には、同市内の映画館は合計27館を数え、市内映画館数のピークを迎えたが、金岡劇場が閉館する1965年(昭和40年)には、17館に激減していた[22]Google ストリートビューによれば、2009年(平成21年)7月現在の同館跡地は、1981年(昭和56年)に地域再開発により完成し北側に隣接するジョルノ専門店街[23]契約駐車場である[18]。ジョルノビルは再々開発が予定されている[23]

金岡劇場

金岡劇場(かなおかげきじょう)は、かつて存在した日本の映画館である[14][15]。第二次世界大戦後、堺電気館を復興した本山敬二郎が、1958年(昭和33年)前後の時期、国鉄阪和線(現在の西日本旅客鉄道阪和線)の堺市駅の西側、大阪府堺市北三国丘町(現在の同府同市堺区北三国ヶ丘町)に開館した。本山は堺電気館を1961年(昭和36年)に閉館し、木造一階建・観客定員数250名の同館一本に映画館経営を絞ったが[14][15]、1965年(昭和40年)に閉館、映画館事業から撤退した[22]

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f g キネマ[1915], p.19.
  2. ^ a b c d e f 堺市[1919], p.29.
  3. ^ a b c d e f g h i 年鑑[1925], p.472.
  4. ^ a b c d e f g h i 総覧[1927], p.678.
  5. ^ a b c d e 総覧[1929], p.281-282.
  6. ^ a b c d e f 総覧[1930], p.583.
  7. ^ 昭和7年の映画館 大阪府下 31館、中原行夫の部屋(原典『キネマ旬報』1932年1月1日号)、2014年2月21日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i 年鑑[1942], p.10-78/10-79.
  9. ^ a b c d e f g 年鑑[1943], p.471-472.
  10. ^ a b c d e f g h i j k l 年鑑[1950], p.173.
  11. ^ a b c d e f g h 年鑑[1951], p.358-359.
  12. ^ a b c d e f g h i j k 総覧[1955], p.115-116.
  13. ^ a b c d e f g h i j 総覧[1956], p.116-117.
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 便覧[1961], p.179.
  15. ^ a b c d e f g h i j k 便覧[1962], p.174-175.
  16. ^ a b c d e f g h i j k l 堺観光ボランティア協会ニュース5月号通巻156号 (PDF) 堺観光ボランティア協会、2010年5月1日発行、2014年2月21日閲覧。
  17. ^ a b c 堺商[1982], p.540.
  18. ^ a b 大阪府堺市堺区三国ヶ丘御幸通19番地Google ストリートビュー、2009年7月撮影、2014年2月21日閲覧。
  19. ^ a b 1926年 公開作品一覧 633作品、日本映画データベース、2014年2月21日閲覧。
  20. ^ 総覧[1929], p.136-137.
  21. ^ キネ[1965], p.174.
  22. ^ a b c d e f g 便覧[1965], p.138-139.
  23. ^ a b “13年度内に施行認可取得/事業主体を13年秋設立/堺市、ジョルノビルを再々開発”. 日刊建設通信新聞社. (2013年7月8日). http://www.kensetsunews.com/?p=16271 2017年5月8日閲覧。 

参考文献

  • 『(キネマ・レコード)』第4巻通巻第30号、(キネマレコード社)、1915年12月
  • 『キネマ・レコード』第5巻通巻第51号、キネマレコード社、1917年11-12月
  • 『堺市制三十年史』、堺市、1919年
  • 『日本映画年鑑 大正十三・四年』、アサヒグラフ編輯局東京朝日新聞発行所、1925年発行
  • 『日本映画事業総覧 昭和二年版』、(国際映画通信社)、1927年発行
  • 『日本映画事業総覧 昭和三・四年版』、国際映画通信社、1929年発行
  • 『日本映画事業総覧 昭和五年版』、国際映画通信社、1930年発行
  • 『映画年鑑 昭和十七年版』、(日本映画協会)、1942年発行
  • 『映画年鑑 昭和十八年版』、日本映画協会、1943年発行
  • 『映画年鑑 1950』、時事通信社、1950年発行
  • 『映画年鑑 1951』、時事通信社、1951年発行
  • 『映画年鑑 1955 別冊 全国映画館総覧』、時事通信社、1955年発行
  • 『映画年鑑 1956 別冊 全国映画館総覧』、時事通信社、1956年発行
  • 『映画年鑑 1961 別冊 映画便覧』、時事映画社、1961年発行
  • 『映画年鑑 1962 別冊 映画便覧』、時事映画社、1962年発行
  • 『映画年鑑 1965 別冊 映画便覧』、時事映画社、1965年発行
  • キネマ旬報』2月上旬号(通巻384号)、キネマ旬報社、1965年2月1日発行
  • 『堺商工会議所百年史』、堺商工会議所、1982年3月

関連項目

外部リンク

ウィキペディア、ウィキ、本、library、論文、読んだ、ダウンロード、自由、無料ダウンロード、mp3、video、mp4、3gp、 jpg、jpeg、gif、png、画像、音楽、歌、映画、本、ゲーム、ゲーム。