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堤 清六(つつみ せいろく、1880年〈明治13年〉2月15日 - 1931年〈昭和6年〉9月12日)は、日本の実業家、衆議院議員。日魯漁業株式会社(現株式会社マルハニチロ)の創業者。実弟は新潟県知事・参議院議員を歴任した亘四郎。
来歴・人物
堤清六は1880年2月15日 に、新潟県南蒲原郡三条町上町(現三条市)の呉服商「近清」(堤家)7代目の清七、千代の長男(第1子)として生まれた。三条町立尋常高等小学校(現三条市立三条小学校)を卒業後、北米教校に進学した。 1895年 には、祖父の東京出張に同行していたが、その祖父が急死した。このため、清六は遺骨を持ち帰った。 1904年 には、 日露戦争で御用商人(酒保)を志願、満州に渡る 1906年、清六はアムール川下流のブロンゲ岬で平塚常次郎と出会う。平塚と北洋漁業の開拓を誓い帰国するものの、親族には反対された。呉服商近清を店じまいし、叔父・清吉、親族の小出勇助、三条出身の海産物商・田代三吉らの賛同を得て11月3日に清吉宅(新潟市東堀前通)の軒先に「堤商會」を創立した。 1907年 には 、ブリガンティン式帆船・寳壽丸を購入した。同年6月4日にカムチャツカ半島・(ウスカム川)の漁場をめざし新潟を出港した。 1910年 、水産講習所の鍋島技師らの協力を得て鮭缶詰(のちのあけぼの印の鮭缶)の製造を開始した。その後、カムチャツカ半島西海岸のオゼルナヤに最新式の缶詰工場を新設した。 1912年には、清六の妹・ヨシ(芳子)と平塚常次郎が結婚した。 1914年 、日魯漁業株式会社(旧)が北海道函館市に発足した。 1920年 には、堤商會が輸出食品と合併し、極東漁業株式会社と改称した。 翌年の1921年には、極東漁業株式会社が勘察加儀漁業株式会社・日魯漁業株式会社(旧)と合併。これにより新しい「日魯漁業株式会社」が発足し、堤清六は会長に就任した。 1924年 、堤清六は衆議院議員に当選した。(2期) 1929年 、(島徳事件)(日魯漁業支配権をめぐる優良漁区奪取事件)が発生した。そのため、清六は会長を辞任することとなった。 翌年1931年9月12日 、東京の病院で死去した。享年51歳であった。三条市の菩提寺・極楽寺に眠る。戒名は淨雲院清慈海蒼龍大居士。
栄典
堤邸広場・蒼龍庵
堤の生家はのちに三条市に寄付され、三条市は跡地を勤労青少年ホームとして使用した。
勤労青少年ホームが老朽化により移転し、生家の一部を移転改築し「蒼龍庵」、「堤邸広場」として整備。広場には勤労青少年ホーム前に建っていた堤の胸像が建立されている。
堤家
- 牧田利平編 『名家系譜 越佐人物誌』 野島出版、1986年、141-142頁 に基づき作成した。
脚注
参考文献
- 岡本信男 『北海の雲:堤清六波乱の生涯』 いさな書房・水産社、1987年
- 川端克二 『北海の征服者』 牧書房、1944年
- 志村和次郎 『「創造と変化」に挑んだ6人の創業者』 日刊工業新聞社、2005年 (ISBN 9784526054174)
- 社団法人日本工業倶楽部編 『日本の実業家:近代日本を創った経済人伝記目録』 日外アソシエーツ・紀伊国屋書店、2003年 (ISBN 4816917896)
- 内藤民治編著 『堤清六の生涯』 曙光会、1937年
- 西方藤七編著 『県央の人物』 野島出版、1989年
- 日魯漁業株式会社編 『日魯漁業経営史 第1巻』 水産社、1971年
- ニチロ 『日魯漁業経営史 第2巻』 ニチロ、1995年
- 馬塲信彦 『堤清六の生涯』 堤清六先生顕彰会、1998年
- 牧田利平編『名家系譜 越佐人物誌』野島出版、1986年、141-142頁頁。
- 緑川玄三『三条人物伝』三条人物伝刊行会、1992年。
- 亘四郎[新潟日報社編]「堤清六」『越佐が生んだ日本的人物』、新潟日報社、1965年。
関連項目
外部リンク
- はこだて人物誌 堤清六