この記事は(検証可能)な(参考文献や出典)が全く示されていないか、不十分です。(2011年3月) |
概要
相模土肥氏
中村荘司宗平の次男実平が、相模国(土肥郷)を有したのが始まり。実平は源頼朝に忠実に仕えて厚く信頼された。その後、和田合戦で和田方に付いたことが原因で衰えるが、実平の子孫・(土肥実綱)が鎌倉将軍九条頼嗣、執権の北条時頼、北条時宗に仕えて活躍し、土肥氏を再度歴史の表舞台に引き上げた。この実綱の弟の(土肥頼平)が越中土肥氏の祖となるのである。
越中土肥氏
建長年間(1249年 - 1255年)に土肥氏の一族である(土肥頼平)が越中国(現・富山県)に地頭として入ったとされるが、不明な点が多い。その後、同地で勢力を伸ばし、南北朝時代から戦国時代には越中国の代表的な国人として勢威を振るった。越中国守護であった畠山氏の傘下に入り、畠山氏の家督争いでも活躍している。その後の土肥氏は一貫して畠山氏に忠誠を誓っていたようで、(土肥将真)は畠山尚順に従って将軍に謁見し、1493年の明応の政変で畠山政長と運命を共にした土肥氏の一族や、能登畠山家に仕えた一族もいる。
戦国時代となり、神保氏と椎名氏の両勢力の狭間で
近江土肥氏
鎌倉幕府より近江箕浦庄を与えられ室町時代には奉公衆(外様衆)として足利将軍家に直属した土肥氏があった。(番場城)や鎌刃城を築き交通の要衝であった近江番場周辺を守ったといわれている。
1336年(延元3年)に土肥六郎兵衛尉心光が足利尊氏の命により、近江国の箕浦谷に蔓延る野武士を平定する。その功によって箕浦庄を与えられ、醒井を拠点として室町時代前期に渡り安定した領土経営を行った[4]。戦国時代への転換期に入ると京極氏に領土を脅かされるようになり、拠点を山間地の枝折へ移して戦国期の動乱を乗り切った。しかし、関ヶ原の戦いで西軍に与したことから、当代の土肥六郎兵衛は土地資産や記録文書の全てを寺社に寄進し、鳥取に落ち延びて近江土肥氏は消滅した[4]。