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和珥氏(わにうじ)は、「和珥」を氏の名とする氏族。5世紀から6世紀にかけて奈良盆地東北部に勢力を持った古代日本の中央豪族である。
和珥は和邇・丸邇・丸とも書く。
出自
歴史
勢力範囲
和珥氏は、奈良盆地東北部一帯に広く勢力を持った[1]。その本拠地は大和国添上郡和邇(現・奈良県天理市(和爾町)・櫟本町付近)と添下郡で、後漢中平年間(184年 - 189年)の紀年銘をもつ鉄刀を出土した東大寺山古墳を含む(櫟本古墳群)はこの一族の墓所と推定されている[2]。年代や規模の観点から、最初期の東大寺山古墳が彦国葺命の、赤土山古墳が大口納命の墓と推定されるが、(和邇下神社古墳)は規模から見て武振熊命の墓とは考え難いと指摘されている[3]。
全盛期
和珥氏は大和朝廷の外征に参軍し軍事的な業績を上げたと『播磨国風土記』や『新撰姓氏録』から推定されている[4]。記紀記述の内で、史実性の高い天皇に葛城氏が后妃を出したころ和珥氏一族が孝安天皇、開化天皇に后妃2人を入れ、葛城氏の没落後に多くの天皇に11人の后妃を出し、勢力を広げた[5]。系図によれば[6]、仁徳朝頃に米餅搗大臣命の四子が大きく和邇、大宅、布留、春日の地に分かれて、各地に支族を分岐した。原始的姓氏は「鰐積」で、当初は「和邇部」であり、履中朝から允恭朝のカバネ制定にあたって、米餅搗大臣命の後裔の本宗四系統が先に「和珥臣」になったと見る説がある[7]。6世紀頃に春日氏、小野朝臣、粟田朝臣、(柿本)朝臣、(大宅)真人、(櫟井)朝臣など別姓を名乗るころから和珥春日氏が和珥氏の中心となり、そのころに和珥春日氏から春日氏に改姓すると見る説がある[8]。
春日氏の衰退
春日氏となって後に蘇我氏が勢力を伸ばすと、春日氏は急速に政治勢力として衰退し、表面から消え、他の分岐した小野氏、柿本氏、粟田氏、大宅氏などが、各方面で活躍する[9]。
枝氏
記紀の伝承
部曲
脚注
出典
- ^ 岸 1964, pp. 42–47.
- ^ 岸 1964, p. 76.
- ^ 宝賀 2012, p. 66 - 68.
- ^ 岸 1964, pp. 35 - 39、86 - 87.
- ^ 岸 1964, pp. 20–23.
- ^ 宝賀 1986, p. 271.
- ^ 宝賀 2012, p. 77.
- ^ 岸 1964, p. 51、出典は関晃書評「律令国家の基礎構造」『(歴史学研究)』254号 1961年(昭和36年)
- ^ 岸 1964, pp. 22 - 23、50 - 60、87 - 88.
- ^ 一云 磯城縣主葉江女渟名城津媛 一云 倭國豊秋狭太媛女大井媛也(孝昭紀29年)
- ^ 応神紀2年。ただし先代旧事本紀は菟道稚郎子の母を(物部多遅摩)連の女の(山無媛)ともする
- ^ 岸 1964, pp. 60–66.
参考文献
関連項目
- 田中城 (肥後国) - 肥後国の国人和仁氏が本拠とした城