沿革
人口
村政
村役場は大字別府に設置[3]。山西村出身の新田長次郎(新田帯革製造所代表社員)の話によると「山西は古くより村人が二派に分かれ常に村が円満に治まり難かったが、二派となることを奨励しつつあった人が先年何れも没してより以来山西は円満となり仲良く暮らしつつあることを聞き愉快に堪えなかった。5個の小字より成る味生村は其のうち1ヶ所の小字のため始終円満を欠くことがあった。」という[4]。村長、助役、収入役、村会議員は以下の通り。
- 村長
- 新田萬次郎[5] - 1869年生まれ[6]。新田幸八の三男[6]。村会議員、総代等に多年歴任し、当村の村長を2期間つとめた[6]。新田幸一は養子[6]。
- 新田幸一 - 1887年生まれ[7]。原籍は味生村大字山西[7]。松山農業学校出身[7]。農業を営む[7]。1930年2月、本村助役2ヶ年、1932年、村長拝命[7]。味生村大字山西区長、神社寺総代[7]。
- 助役
- 収入役
- 村会議員
教育
経済
- 農業
米、麦、繭の産あり[1]。『大日本篤農家名鑑』によれば味生村の篤農家は、「五百木清五郎、五百木豊三郎、新田半蔵」などがいた[8]。
地理
河川
山岳
- 弁天山
- 岩子山
交通
鉄道
出身・ゆかりのある人物
脚注
- ^ a b c 『日本地名大辞典 第6巻』5399頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年12月15日閲覧。
- ^ 日本地名大辞典〈38〉愛媛県. 角川書店
- ^ a b c 『角川日本地名大辞典 38 愛媛県』631頁。
- ^ 『談話集 自明治四十五年一月至大正十四年十一月』472-476頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年12月7日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『新編温泉郡誌 大典紀念』479-492頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年7月29日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k 『愛媛県人物名鑑 第1輯 松山市、温泉郡之部』温泉郡いの部2・6、をの部72、にの部33、みの部282、やの部209頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年12月19日閲覧。
- ^ a b c d e f 『愛媛県紳士録』227頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年12月16日閲覧。
- ^ 『大日本篤農家名鑑』96頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年12月14日閲覧。
- ^ 『新編温泉郡誌 大典紀念』34頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年10月24日閲覧。
参考文献
- 大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。
- 椿南松田卯太郎編『新編温泉郡誌 大典紀念』松山石版印刷所、1916年。
- 『愛媛県人物名鑑 第1輯 松山市、温泉郡之部』海南新聞社、1923-1924年。
- 新田帯革製造所編『談話集 自明治四十五年一月至大正十四年十一月』新田帯革製造所、1926年。
- 愛媛新報株式会社編『愛媛県紳士録』愛媛新報、1934年。
- 『日本地名大辞典 第6巻』日本書房、1939年。
- 角川日本地名大辞典編纂委員会編『角川日本地名大辞典 38 愛媛県』角川書店、1981年。