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歴史
京都室町小路にあった自宅の敷地を足利義満に譲ったことで知られる家祖・吉田兼煕は、吉田神社の社務であることにちなんで家名を「吉田」とした。この兼煕は神祇大副や侍従を務め、卜部氏として始めて公卿に昇った。
5代・兼倶は唯一神道を創始、既存の伊勢神宮系の神職と激しく対立しながら、後土御門天皇を信者に得て勢力を拡大して「神祇管領長上」という新称号を自称した。以後神祇伯の白川家を駆逐して全国の神社に対する支配を広げていった。
9代・兼見に至って織田信長の推挙により堂上家の(家格)を獲得した。近衛前久に家礼として仕え、明智光秀と深い親交のあった兼見の日記『(兼見卿記)』は、織豊政権期の研究に必須の一級史料となっている。神職における吉田家の優位は江戸時代になって、寛文5年(1665年)の諸社禰宜神主法度で確定する。
歴代当主は神祇管領長上を称し、正二位神祇大副を極位極官とした。江戸時代の家禄は760石[注釈 1]。分家として、江戸時代初期に萩原家が出ている。
明治維新後の明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生する吉田家も旧公家として華族に列した[2][3]。明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に大納言直任の例がない旧堂上家[注釈 2]として良義に子爵位が授けられる[1]。
系図
脚注
注釈
出典
- ^ a b 小田部雄次 2006, p. 338.
- ^ 浅見雅男 1994, p. 24.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 13-14.
- ^ 浅見雅男 1994, p. 118.
- ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 382.
- ^ 清原宣賢の次男
参考文献
関連項目