内藤 魯一(ないとう ろいち、弘化3年10月6日(1846年11月24日) - 明治44年(1911年)6月29日)は、幕末から明治にかけて活躍した自由民権家。衆議院議員(立憲政友会)。
経歴
福島藩出身。内藤家は、代々譜代大名板倉氏の家老職の家柄であった[1]。戊辰戦争の際に福島藩は奥羽越列藩同盟に参加するが、内藤はこれに反対して孤立する。だが、福島藩が敗北すると事態の収拾に尽くし、三河重原藩(現在の愛知県刈谷市)に転封されたものの、執政大参事として藩政の立て直しに参画し[1]、廃藩置県後も藩士の授産活動に尽くした[1]。
1879年(明治12年)には愛知で旧重原藩士と周辺の豪農を中心とした三河交親社を設立[1]、翌年には組織を拡大改組し愛知県交親社を設立した。同年の3月に大阪で開催された愛国社第4回大会にはこの愛知県交親社の代表として参加している。県下の民権運動の指導者として活躍し、「三河板垣」の名前で呼ばれた。後に自由党の設立に関わって幹事に選出され、「大日本国憲草案」(私擬憲法)を起草。また、板垣退助の秘書となり、1882年(明治15年)4月6日、板垣が岐阜の神道中教院で刺客・相原尚褧に襲われ「板垣死ストモ自由ハ死セズ」と勘破した時、刺客を投げ飛ばして取り押さえ、窮地を救った[2]。
自由民権運動の激化事件として知られる加波山事件に連座したことで2年の獄中生活を送った。
1890年(明治23年)1回衆議院議員総選挙に出馬するも、干渉と他県生まれというハンディによって落選した[4]。愛知県会議員を10年以上に渡って務め、明治用水の整備や名古屋港の築港に力を注いだ。1902年(明治35年)、教科書疑獄事件で収賄罪に問われ、懲役1年の刑を受けた[5]。これにより県会議長の座を失ったものの、受け取った金の全額を経営危機にあった東海新聞社の救済資金に充てたため、かえって声望が高まり、1905年(明治38年)の衆議院議員補欠選挙に立候補し当選した[5]。第9回衆議院議員総選挙でも再選され、1911年、代議士現職のままで死去した。墓所は愛知県刈谷市の竜江寺。
脚注
関連項目
参考文献
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- 愛知県教育会編『愛知県偉人伝』
- 長谷川昇「内藤魯一・庄林一正文書を中心とした愛知県自由民権運動史」(『東海近代史研究』二・三・五)