作山 和英(さくやま かずひで、1969年6月4日 - )は、福島県相馬市[1]出身の元プロ野球選手(投手)。
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 福島県相馬市 |
生年月日 | 1969年6月4日(53歳) |
身長 体重 | 173 cm 70 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1991年 ドラフト2位 |
初出場 | 1992年4月7日 |
最終出場 | 1992年10月11日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について |
来歴・人物
学法石川高では、2年生時の1986年に夏の甲子園に控え投手として出場。2回戦(初戦)で東洋大姫路高の長谷川滋利、島尾康史の継投に抑えられ敗退。この試合ではリリーフとして起用され甲子園初登板を果たす。翌1987年には春の選抜にも出場。1回戦で先発するが池田高に敗れる。高校同期に伊藤博康、諸積兼司がいた[1]。
高校卒業後は、高校同期の伊藤とともに東北福祉大学に進学[1]。仙台六大学野球リーグでは在学中7回優勝。1991年の全日本大学野球選手権大会では決勝で関大と対戦。延長17回の熱戦を制し優勝投手となる。同年は大学の同期である斎藤隆、浜名千広、金本知憲らとともに日米大学野球選手権大会にも出場した[2]。4年春ベストナイン。
1991年のプロ野球ドラフト会議で2位指名され[1]、浜名とともにダイエーホークスに入団。大小のスライダーを武器とし、プロ1年目の1992年から一軍登板を果たすも、目立った成績を残せず、翌1993年に戦力外通告を受けて現役を引退した。
1994年以降、福岡ダイエー・ソフトバンクの北海道・東北地区担当スカウトとして活動している[1]。担当した選手は中村晃[3]、攝津正[4]、周東佑京[5]。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
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1992 | ダイエー | 9 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 44 | 8.1 | 13 | 2 | 6 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 9 | 8 | 8.64 | 2.28 |
通算:1年 | 9 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 44 | 8.1 | 13 | 2 | 6 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 9 | 8 | 8.64 | 2.28 |
記録
- 初登板:1992年4月7日、対千葉ロッテマリーンズ1回戦(千葉マリンスタジアム)、8回裏に2番手として登板・完了、1回無失点
- 初奪三振:1992年9月11日、対近鉄バファローズ16回戦(藤井寺球場)、8回裏に加藤正樹から
背番号
- 10 (1992年 - 1993年)
代表歴
脚注
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 作山和英 - NPB.jp 日本野球機構